第3話 羽化、旅立ち③
「―― あれ」
家に戻ると、部屋の真ん中にピュイが座っていた。食卓用のテーブルが端に寄せられ、ピュイは椅子の上で薄い布を首のあたりに巻かれている。
「お邪魔してます…… 昨日自分で髪切ろうとしたんだけど失敗しちゃって、リーニュのお母さんが切ってくれるって言うから」
羽化する前には肩まで長かったピュイの髪は、今では首がすっかり見えてしまっている。所々不揃いなのは、本人の言う通り自分で切ろうとした跡だろう。
「ああ、リーニュ。おかえり」
「ただいま。ユールリルたちがお母さんとカリャサのお母さんによろしくって」
言づてをタリに伝えてから、リーニュは椅子に座った。鋏を持ってピュイのもとへ戻ったタリが、彼の耳の柔らかい部分をつまんで「ほら、見て」とリーニュに言った。
「無理して自分で切ろうとするから」
「うわ」
種族特有と言われている、三角形に長い耳―― リーニュはこの形以外の耳を見たことがないので長いとは思わないが―― の耳たぶに近い場所が赤くなっている。時間の経過か、やや黒ずんだそこはかなり痛そうだ。
「大丈夫……?」
「すぐイグニ先生のとこに言ったから」
血もそんなに出なかったし、とピュイはけろりとした様子で言った。ピュイの体は、ロイセと同様羽化する前と少し違っていて、リーニュに妙な違和感を与える。特にピュイは里の子どもたちの中でも体がいっとう小さくて、他の子どもたちによくいじめられていた。その子どもたちももう、ほとんどが都やら外へ出稼ぎに行ってしまって里にはもういないが。
ピュイの体は所々骨が浮き出ていて、もともと細い体躯のせいで羽化する前からも骨ばってはいたが、その頃とは違う太くしっかりした骨がピュイはもう変わってしまったのだということを証明している。
(ピュイ、血を見るの苦手なのに)
変わってしまった体を前にして、そんな一言さえも口にできない。変わってしまった彼の体に、カリャサもこんなふうに、まるで別の人みたいになってしまっていたら、という不安が止まらない。
「…… 河に、落ちたんだって?」
「ああ、うん」
びっくりしちゃって、と話す声が少し掠れたような気がした。声は、大人になれば男女とも少なからず変わるが、男の方がその変化は大きい。
―― カリャサだって。
カリャサだって、リーニュの全然知らない声で話すのかもしれない。これからの人生を、ずっと。リーニュの知らない声で、生きていくのかもしれない。
リーニュは椅子の上でぎゅっと目をつむった。
「忘れ物はない?」
タリの問いかけに大丈夫と答えつつ里の入り口に出ると、ピュイが先に馬車に乗っていた。貴族が乗るような幌のついたのではなく、どちらかというと荷馬車に近い。実際、馬を操っているのは商人で、乗っているのも荷台のような場所だった。
大きな荷物の横に座ったピュイの頭は、タリに切ってもらってずいぶんとすっきりしていた。あのふわふわとした髪は、あれはあれで可愛かったと思うが、男になったからにはもう見られないかもしれないと思うと残念だ。
ピュイはさっきから、自身の荷物の上に手を置いたり、かと思えば座り直したりと落ち着かない様子だ。
「うるせーな。じっとしてられないのかよ」
「―― ご、ごめん」
その原因はいじめっ子の中心たるナナヤが正面に座っているせいにほかならないだろう。
「ナナヤがピュイのことじろじろ見てるからでしょ」
リーニュがたしなめると、ナナヤははあ? と眉根を寄せた。
「なんだよリーニュ、カリャサがいないからって兄貴ぶって」
「そんなんじゃないけど。…… 脚閉じたら。一応女なんだから」
「なんでおまえらの前で女らしくしなきゃなんだよ」
ナナヤは同じ年頃の子どもたちの中でも体が大きい方で、いたずらっ子で、いわゆるガキ大将といった感じの子だった。普段から男のような話し方をするし、遊びだって虫を捕まえたり雪を投げ合ったりして、活発なものばかりだったので、周りの大人たちは口をそろえてありゃ男になるなと言っていた。
それなのに蓋を開けてみればナナヤは女を選んで、あんなに気弱で大人しい子だったピュイは男になった。
カリャサはどうだろう。カリャサもナナヤと同じくらい背が高くて、子どもたちの中心だった。力も強かった。
「…… カリャサも、無事に大人になれるといいね」
ふとピュイがこぼして、リーニュはうん、と短く同意した。
狭い集落だ。長の息子であるカリャサが年が明ける四日も前に蛹化したにもかかわらず、いまだに羽化していないのは里じゅうの者が知っている。
リーニュは胸元をつかんだ。年が明ける前、カリャサと言い争いになって、彼に胸ぐらをつかまれた感覚がまだ残っている。
「べつに、おまえだけのせいじゃない」
リーニュの心の内をのぞいたかのように、ナナヤが言った。
「カリャサが悩んでたのだって、あいつが勝手にややこしくしてただけだし、悩んでるって知っててなにもしなかったのはみんなそうだ」
「…………」
リーニュは黙った。そうだけど、そうではないのだ。
『リーニュ』
カリャサの、自分を呼ぶ声と、繋いだ手の感触を、まだ覚えている。だけど確かに、少しずつ薄れていっている。寝台の中で毛布にくるまりながら何度も何度も思い返したにもかかわらず、もう繋いだ手の感触よりも、押し倒された腕の感触の方がまだ鮮明だった。
『リーニュはここでずっと俺と一緒に暮らすのが一番幸せなんだよ』
彼のあれだけ切羽詰まったような顔を見たのは初めてだった。
「…… でも、一番近くにいたのは、リーニュだよね……」
ふと絞り出すようにピュイが言って、リーニュは思わず彼の顔を見た。するとピュイは焦ったように
「リーニュが悪いって言いたいわけじゃないよ」
と弁明した。
「でも、やっぱりなんとかできたのは…… なんとかできるのはリーニュだけだって思う……。それくらいカリャサは――」
「あほ」
言葉の途中でナナヤがピュイの頭をはたいた。ピュイが悲鳴を上げて怯えたように身をすくめながらナナヤを見る。
「だからおまえはいつまで経ってもいじめられるんだよ。それともまだいじめられ足りないのか? あ?」
「やっ、やめてよ……!」
ピュイが身を引いたのでナナヤは足を駆使した猛攻に変える。
「―― あ」
それを横目でどうやってやめさせようか考えていたリーニュは、目の前に広がる景色に思わず声を上げた。それに反応して、ピュイとナナヤもリーニュの視線の先を振り返る。
目の前には一面、湖が広がっていた。
広く澄んだ水面に、太陽の光が反射して美しかった。朝日の昇るころに見られたならもっと美しいのだろう。
その上を、大小の竜たちが都の方へと飛んでいった。城で飼われている竜で、背中に乗っているのは王を守る騎士の中でも選ばれた者たちだ。
「すごい……」
初めて見る景色に、ピュイが呟いた。
「カリャサも見られたらよかったな」
と言うナナヤにリーニュは
「見られるよ」
と短く返答した。
長は里から出られないというが、彼だって今すぐ長になるわけじゃない。長が代替わりする前にもう一度ここへ来て、一緒に見ればいい。見ることができる。絶対に。
湖の上を飛んでいく竜を見ながら、リーニュは自分に言い聞かせるように心の内で呟いた。
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