第2話-3母は言わず
子どもの俺に母さんのことを教えてくれたのは、当時の助産師だった人だ。俺を、冷たい母親の体から取り上げてくれた人。
死体から生きた赤ん坊が出されるのは稀らしい。どれだけ稀なのかは知らなくていいことだって、その人は言っていた。大事なのは、今俺が生きてその人の話に耳を傾けているということ。そう、優しい声で言っていた。
俺が産まれた寒い日のこと。母さんが病院に搬送された時のこと。母さんが息を引き取った時のこと。母さんの腹の中に赤ん坊がいるってわかった時のこと。その赤ん坊が、生きているとわかった時のこと。
それと、母さんがどんな人だったかを、少しだけ。
その人は俺に解りやすく話してくれたんだと思う。でも、子どもの俺が思ったことはいつも同じだった。
おかあさんにあいたい。
ただひたすらに、母さんという人に会いたかった。赤ん坊だった俺がずっと一緒にいたはずの人。ずっと一緒だったのに別れてしまった人。
胎の中に戻りたいってわけじゃなかった。でも、その人の温かさが恋しかったんだ。母さんの体温が欲しかったんだ。
ずっと一つだったのに。ずっとへその緒っていう一本の管で繋がっていたのに。俺は母さんから切り離された。
おまえはもういらない。
そう言われた気がしたんだ。
父さんからは悪いと言われ続け、更には母さんから要らないと言われないといけないのか。俺は泣いた。
「おかあさんにあいたい」
「おかあさんにあいたい」
「おかあさんにあわせて」
俺は泣き続けた。
そんな俺の背中をさすって、頭を撫でてくれたのが助産師さんだった。
話もろくに聞かない子どもを、その人は優しく見守ってくれた。
君は生きていていいんだよ。生きてくれ。あの人の分まで、生きてくれ。
その人は。その男の人は、俺を見て、話しかけて、抱き締めてくれた。母親が与えるべきだった温もりを、その人は俺に与えてくれた。
俺は、その人に育ててもらったんだ。生きていていいんだって、生きて欲しいって言ってくれたその人。
顔も思い出せないけど。
声も思い出せないけど。
でも、その人の温かさだけは覚えているんだ。
大切なことを教えてくれた助産師さん。それを知るのは俺が中学にあがるくらいの時だ。
だって、俺は遅刻常習犯。全部が遅れてしまう。
俺は。
俺がその人に何かを伝えようと決めたその時には、もう、その人はこの世にはいなかった。ありがとうも言えなかった。でもその人は、ずっと俺の側にいてくれたんだ。たくさん、教えてくれたはずなんだ。
気づいた時にはもう亡くなってしまっていたその人。
俺に生きて欲しいと言ってくれたその人。
「君は、いらなくなんてないよ」
俺の心にその人の言葉が届いた瞬間、前を向こうと思ったんだ。母さんの分も、その助産師さんの分も生きていこうって、心から強く思ったんだ。
遅くなったけど、やっとそう思えたんだ。
助産師さんは、俺に一通の手紙を遺してくれた。いつか追い付いてくれますようにと願いを込めて、小さな子どもの俺の手にその手紙を握らせた。
「産まれてきてくれてありがとう」
ただそれだけ書かれた一枚の紙と、それに包まれた干からびた肉の管。
俺と母さんを繋げていた、へその緒だった。
大事な大事な想いのこもった、封のされた手紙。
それは俺の手の中に今でも握られている。
みんなと逢う約束の、同窓会の案内と一緒に握られている。
父さんは相変わらず何かを言っていた。黒い煙を吐き出しながら、俺に唾を振りかけていた。
すごく、すごく、嫌だった。悪い奴だ、全部こいつのせいだ。俺の耳には聞こえていた。
でも、もう。産まれてこなきゃよかったとは思わなくなった。
俺は遅刻常習犯。
やっと、自分の意思で生きていきたいと思った。そんな子ども時代。
遅いよな。
出逢いは遅くなかったのに、その意味を知るのが遅すぎた。俺は今でも後悔している。
でも、出逢ったその人たちは俺のことをわかってくれていた。遅れる俺のために何かを残して、先にいってくれた。
だから俺は、焦らないでその人たちを追いかけることができた。遅れてもいいから、自分のペースで歩んでいくことができた。
おい、友人A。
いい加減思い出したらどうだよ。
お前が待っててくれたのは、この俺だぞ。
この、遅刻常習犯だぞ。
待たせちゃったけど、ちゃんとお前のところにやって来た。
はやく思い出せよ。
思い出してくれよ。
生きて待っててくれたお前に、ありがとうって言いたいんだ。
はやく思い出してくれよ、友人A。
思い出すまで、今度は俺がお前を待っててやるからさ。
友だちだろ、俺たち。
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