三.城下へ(2)
***
忽然と姿を消した、丹羽家の姫君。
城内は無論のこと、城下町の方々を駆けずり回って探すものの、その行方は杳として掴めなかった。
鳴海は城下の外れまで馬を駆ってきたが、その周囲にも瑠璃の姿のないことを知ると、どうと手綱を引き絞って馬足を止める。
「くそ、此処にもおられん」
馬と己との白い息が冷気に靡く。
馬が鼻を鳴らすのが聞こえ、手入れの行き届いた毛艶の良い青毛の馬首が、何かを振り払うようにぶるりと身じろいだ。
と、鳴海は鼻先にひやりと冷たいものを感じた。
続けざまに、同じ感覚が手の甲に当たる。
見れば、それは
白い点が肌に触れ、じわりと水滴に変わる。
「降ってきたか」
低い上空は、暗灰色の雪雲が蛇のようにうねる。それがさながら蛇か、あるいは禍々しい龍が蠢いているようにも見え、鳴海は殊更に心急くのを禁じ得なかった。
***
「そら、たーんと食え。俺が人に団子を奢るなんて滅多にないんだ、感謝して食うがいい」
瑠璃が煎茶の器を両手で包むようにして暖を取っていると、正面の栄治が尊大な笑顔で言った。
寒いせいか、煎茶の湯気はその向こう側が見えないほどに真白い。
瑠璃は栄治の勧めを聞き流し、その根拠もなく偉そうな笑顔をじっくりと見返した。
「そなた、こんな朝っぱらから甘味処で暇潰しとは、ずいぶん不真面目なんだな?」
栄治の眉が、瞬時に不可解そうに潜められた。
「不真面目? ふうん、俺はそうでもないと思っているが、そう見えるか」
「そうじゃ。朝から団子を食べる暇があったら、剣術の稽古なり勉学に励むなり、やることはいくらでもある」
「ほう。嬢ちゃ……いや、失礼。瑠璃殿は日頃そうしておられるのかな?」
わざとらしく尋ね返した栄治の言葉に、瑠璃は胸を張った。
「当然じゃ。私は朝ばかりか、昼も夜も勉学に稽古事に努めている」
「なんだ、じゃあおまえのほうが不真面目だな」
さらりと言い捨てられた栄治の意見に、瑠璃は盛大に顰蹙した。
明らかに侮辱されたと感じた。
両手で包み持っていた万古焼の湯飲みを、強かに叩き付けるように卓上へ置く。
「!? な、なんでそうなる!? 私はいつも、毎日毎日! それこそ日がな一日努力に努力を重ねてだな……!」
激昂して、思わず席を立ち上がりかけた瑠璃を、栄治はその両眼だけで白々しく見つめ上げていた。
その視線に含まれた冷やかさと、何故か僅かな威圧感とに気圧され、瑠璃は言いかけた言葉を飲み込んだ。
呑気で不真面目そうなこの青年との睨み合いは、一瞬で決着がついた。瑠璃の気迫負けだ。
瑠璃が黙ったと見ると、栄治は矢庭に破顔する。
「だから不真面目だと言ったんだ」
「ど、どういう意味じゃ」
今し方迄の気迫はすっかり消え、栄治の顔には呑気な笑顔が戻っていたが、それでも瑠璃はまだ警戒を解けずにいる。
「毎日朝から晩まで勉強だの稽古だのしている奴が、今日に限って浮かない顔でぶらぶらしている。それはもう嫌気が差したってことだろう。日々の不満や鬱憤が溜まりに溜まって嫌になって、無断で稽古を休んで──」
それは違う、と言いたかったが、瑠璃は結局反論を口にすることが出来なかった。
確かに栄治の言うことは強ち間違いでもない。
稽古の予定などそっちのけで飛び出してきたことも事実だった。
「日々努力を重ねることを厭う、投げ出す、放棄する。それを不真面目でなくて何だというんだ?」
追い打ちをかけるような栄治の一言で、瑠璃は悄然と肩を落とした。
来る日も来る日も、ただ義務として押し付けられるもののすべてに、嫌気が差していたのは本当のことだ。
まさか、如何にも不真面目そうな奴に不真面目呼ばわりされようとは思わなんだが。
「あー……まあ、
「私がここにいるのには、ちゃんと理由があるのじゃ。琴の稽古より、礼儀作法や論語の勉強より、もっと大切なものがあるのだと、ある者に言われた」
俯いて呟いた瑠璃の視界に、栄治が自分の分の団子を一串、瑠璃の漆器に載せるのが見えた。
詫びのしるしなのだろうと思ったが、瑠璃は構わず話を続ける。
「それは、人となり、というんだそうだ」
ふぅん、と気のない返事があった。
「私が、どんな教養を身につけるより、どんな立派な学問を修めるより、私自身がどんな人物になろうとするのか──。それが大事なんだと、言われた」
言いながら、昨夜の鳴海の真剣な顔が瑠璃の脳裏に蘇る。
「ほう、それで?」
「……それだけだ」
目の前で頬杖をつく栄治が、拍子抜けしたように呆けた顔を向けた。
「そやつの言うことが本当なら、今までの私の努力は、一体何だったのだろうな」
心に思い描く、自らの理想像すら無いまま続けてきた努力は、果たして無意味なものでしかなかったのだろうか。
瑠璃は独り言のような声で、ぽつりと呟いた。
そして暫時、両者の間に沈黙が流れた。
押し黙ったとはいえ、上目に窺った栄治の面持ちには、困惑の色も同情の色も、まして苛立ちも感じられない。まったくの無表情と言ってよいほど、素っ気ないものだった。
間が空くにつれて気まずさが込み上げてきた頃、瑠璃は小さな吐息を漏らした。
恐らく家中の者ではあろうが、瑠璃自身には全くもって関係のない、それも初対面の者に愚痴を言ってしまったことを、少々後悔した。
「……すまぬ。そなたに言うても詮無いことじゃ」
申し訳なく思い、瑠璃が俯いて詫びた直後、栄治が頬杖を解いた。
「無意味でも無駄でもなかろうよ。どんな教養を無理矢理に叩き込まれてきたかは知らんが、それでもおまえが頑張った事実は変わらん」
未だ若い青年だというのに、そう言った栄治はまるで既に幾重にも年輪を重ねてきた壮年者のように見えた。
物事の真理を悟り尽くしたかのような、至極安穏とした口調だった。
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