三.城下へ(1)

 

 

「おい、起きんかこのボケせがれっ!!」

「ぅごっ!!?」

 鳴海は頭部に鈍痛を受け、漸く目覚めた。

 痛みで涙の滲む目をやっと開くと、辺りは明るく、夜はとうに明けていた。

 次いで、非常に不愉快な起こし方をした者の姿を探す。

「貴様、姫様に何か良からぬことをそそのかしてはおらんだろうな!?」

 そこには、憤怒の形相で黒塗りの大刀を構える、父・彦十郎がいた。

 その姿は、地獄の御遣いの如く。

 大刀はしっかりと鞘に収まっていたが、多分、頭部の激痛はこの大刀が原因だ。

 鞘ごと振り下ろしたのだろう。

 実父ながら、なんと激しい気性だろうか。

「ち、父上……朝は出来ればもっと、囁くように起こして頂きたい……」

「何を気色悪い! それよりも我が問いに答えろボケ! 姫様を誑かすような真似をしたかと訊いておる!」

「た、誑かす!? 父上こそ何を馬鹿な……! いくら私がおなごを骨抜きにせんばかりの絶世の美男子だからと言って、未だ十の童女にまで手を出すと……っごぼうッ!」

 彦十郎の快心の一撃が、今度はその拳から繰り出され、鳴海の頬を直撃する。

「ぐはっ。ちょ、父上、用件は拳でなく口で語って下さらぬか」

 頬を押さえて身悶えながらも、鳴海はちょっとうまいこと言って返したな、とささやかな悦に入る。

 すると頭上から、怒れる彦十郎の底冷えするような声が降り注いだ。

「いいかよく聞けボケ倅。姫様が城からお姿を消された」

「!?」

 硬い鞘で殴打されても冗談を言えるほどだった余裕は、その一言で掻き消えた。

 鳴海は目を見開き、父の表情を改めて凝視する。

「今朝、お付きの侍女がご起床を促すため寝所に入った時には、もう姫様のお姿はなかったそうだ。事は重大ぞ」

「なぜ、そのような──!?」

「おれが知るか。何者かが侵入した形跡は今のところ認められないようだが、もし攫われたのだとすれば、事は急を要するぞ。万一を考慮して城内には緘口令が出されている。大事に至る前に、即刻姫君を探し出し、命に代えても無事城へお連れ申し上げろ」

 彦十郎の鬼気迫る声音に、鳴海の眉にも焦燥が表れた。

 鳴海は枕元に掛けた大小を引っ掴み、袴の紐もそこそこに結ぶと、羽織を着るのも惜しんで屋敷を飛び出して行った。

 

 ***

 

 まちには、どんな人物がいるのだろう。

 城には、いつも背筋を正して僅かの隙も見せない者ばかり。

 ならば外には、どんな者たちが暮らしているのだろう──。

 未だ風は肌身を切るように冷たいが、瑠璃は寝間着の上に辛うじて羽織ってきた内掛けを掻き合わせてそれを凌いだ。

 足元は勿論、素足にその辺の草履を引っ掛けただけだ。

 城を出て間もなくすれば、寒風に晒された素足は凍えて赤く脹れた。

 幸いにも雪はちらついておらず、ただ曇天の空が広がる。

 暗い朝だが、それでも瑠璃の目には何もかもが鮮やかに見えた。

 こんな寒い朝から、忙しなく働き出す人々。

 元気よく挨拶を交わす者たちもいれば、眠気が覚めないのか大欠伸で往来を行く者もいる。

 商家の朝も、武家にも負けず早い。

 曇天の雲に吸い上げられるように、方々で炊煙が立ち上っていた。

 何も考えず、衝動的に飛び出してきた瑠璃に行くあてはない。

 幾筋もの炊煙に重なって、早朝の寒気が浮き上がらせる白い息がたなびく。

 ふらふらと往来を進むが、擦れ違う人々は瑠璃に奇妙な眼差しを向けはするものの、声をかけてくる者は皆無だった。

(出てきたのはいいけど、どこへ行けばいいんだろう──)

 興味をそそる町の様子に胸躍らせながら、早くも漠然とした不安が首を擡げ始める。

 きょろきょろと辺りを見回しながら歩く瑠璃の歩調は、城を飛び出した時の勢いを失くして、段々と覚束ないものになった。

 道の両側に商家が軒を並べ、早いものではもう店を開けている間口もある。

 それらに出入りする人の姿を眺めつつ歩いていると、突然、瑠璃の正面に人影が現れた。

「! うわ、っと」

 危うくその人に正面から突っ込みそうになったが、瑠璃はすんでのところで足を止める。

 直前で激突は避けたが、瑠璃は急な回避のために身体の均衡を崩した。

 足が縺れてその場に転倒するかと思った矢先、思わぬ腕がそれを支えた。

「おっと、悪いな。大丈夫か」

 いとも軽々と瑠璃を支えた人の声が聞こえ、瑠璃は咄嗟に顔を上げる。

 そして、瑠璃はぎょっと声を上げた。

「ギャッ!!? 妖怪毛長!!?」

「誰が妖怪だ、誰が。何処から見ても、黒髪長髪の美青年だろうが!」

 心外そうに眉を潜めて瑠璃を覗き込んだのは、全く見知らぬ青年だった。

 長い黒髪のたぶさを背に垂らし、さらさらと靡かせている。腰に差した二本があるために、どうやら士分の者らしいことは分かったが、どう見ても士分に相応しからぬ怪しさだ。

 瑠璃よりも遥かに上背のある青年は、じろりとねめつけた後で呆れたように吐息した。

「仕方のない奴だ。ちゃんと前見て歩けよ?」

「す、すまぬ……」

「は? すまぬ、だぁ? なんだ、随分尊大だな」

 青年はたっぷり怪訝の眼差しを向けたが、やがて気を取り直したようににっかりと口許を綻ばせた。

「まあいい。どうだ、ここで会ったのも何かの縁だ。朝団子でも馳走してやろう」

「えぇぇっ、い、要らぬ。私は遠慮する!」

 身を翻す間もなく、青年はちょうど目の前に軒を構えていた、まだ準備中であろう菓子舗へと、瑠璃の腕を引いていこうとする。

(これはまさか、世に言う人攫いというやつでは……!)

 瞬時に身の危険を察知し、瑠璃は慌てて腕を振り払おうとしたが、腕を掴んだ青年の手は当然寸毫も剥がれない。

 両足を踏ん張り、瑠璃は必死に手を振り解こうとする。

「は、放せ無礼者!」

「無礼者?」

 瑠璃の権高な口調に、青年は瑠璃を振り返るときょとんと目を丸くした。

「おまえ、どこの家の子だ?」

「えっ!?」

 怪訝ながらも値踏みするような青年の目に射竦められ、瑠璃は瞬時に硬直する。

 丹羽家の姫だと身分が露見したなら、多分、いや、絶対まずいだろう。と、咄嗟に思ったからだ。

 黙って城を抜け出してきている手前、何となく後ろめたさがある。更にはこの青年が本物の人攫いだった場合、身分を知られるのは非常に危険だ。

 だが、質問に答えなければ、更に怪しまれるのは必至。

「わ、私はだな、えーっと……」

 何と名乗ろうか。

 丹羽以外、丹羽以外の姓──

 そして真っ先に瑠璃の脳裏に浮かんだのは、何故かつい先日護衛役として側に仕え始めた男の顔だった。

「わっ私は、大谷鳴海の娘じゃ!」

 思いついたと同時に、瑠璃は大音声で名乗っていた。

「……」

「……」

 暫しの沈黙。

 青年の顔は驚きと訝るような表情が入り混じった、実に奇妙なものになっていた。

「お、大谷家の……?」

 青年は一層まじまじと、瑠璃の頭の上から足の先までを舐めるように眺め回す。

 それは明らかに疑って掛かっている者の態度だ。

 青年はやがて瑠璃の正面に向き直ると、俄かに口をへの字に引き結んだ。

「……な、なんじゃ」

「嘘はいかんなぁ」

「! う、嘘ではない!」

「あのなぁ。大谷鳴海様といえば、鬼の異名を持つ猛将。家中じゃ知らん奴なぞいないほどの有名人だぞ」

(!? あやつが……!?)

 瑠璃としては、そんなことは露知らず。今初めて耳にする話であった。

 単なる仏頂面だと思っていたのが、実はそんな大層な人物だったとは。これは流石に侮り過ぎたか。

 大いに戸惑いを感じはしたが、一度吐いてしまった嘘を撤回すれば、更に素性を怪しまれることは確実。

 瑠璃はあえて平静を装い、斜め上にある青年の目を凝視した。

 すると青年は呆れたように苦笑を溢した。

「ま、どこの嬢ちゃんかは知らんが、団子と茶を奢ってやるから、食ってから帰れ。鼻も耳も赤くなってるぞ」

 そう言うと、青年は再び瑠璃の手を握りなおす。

「で、嬢ちゃんの名は?」

 問われて、瑠璃は僅かに躊躇を覚えた。だが間もなく、名前だけなら、と考えを変え、素直にその名を明かした。

「私は瑠璃という。そなたは」

「栄治だ」

 かじかみそうなほど冷たくなった手に、栄治という青年の大きな手は、ほんのりと温かかった。

 


   ***

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