一.姫君(4)

 

   ***

 

 初日ということもあり、鳴海は一日の殆どを瑠璃の傍らに付き従った。

 琴が終われば礼儀作法、礼儀作法が終われば詩歌、詩歌が終われば針──。

 無論その後には、家中の子弟が学館で学ぶような四書五経──大学、中庸、論語、孟子、易経、書経、詩経、礼記、春秋──などの類も学ぶのだ。

 稽古や学問の間、鳴海は大概が部屋の外での待機である。

 何となく予想はしていたものの、あまりの暇さに欠伸が出た。

 今もまだ瑠璃は室内で、入れ代わり立ち代り指導にやってくる指南役から嫌味混じりの手厳しい指導を受けている。

「子の曰わく、政を為すに徳を以てすれば、譬えば北辰の其の所に居て衆星のこれに共うがごとし──」

 師の読み上げる声がし、師は続いて瑠璃にその意訳を求める。

「え、ええと、先生は言われる。徳をもって政をすれば、例えば、えーと……」

 訥々と、しかし懸命に答えようとしている様子だったが、瑠璃の口からはついにそこから先の意訳が紡がれることはなかった。

「宜しいかな、姫。為政者が徳によって政を為せば、為政者は北の星となり、他の星々が北の星に向けて礼をするようになる──つまり徳によって政を為す者に、人心は帰服する、ということです」

 瑠璃が答えに詰まったと見ると、師は半ば呆れた口調で説き、一拍置いて大仰に吐息した。

「姫。講義の前には予め内容を把握しておくものですぞ。この程度のものが出来ねば講義になりませぬな」

 家中の子弟たちでも、十ではまだやっと手習所に上がるかどうかという年齢だ。

 論語の意訳に詰まるくらい、あって当然だろう。

 それでも、論語を講釈する師は納得しないのだ。

 家中の子弟たちよりも抜きん出ていなければならない。そう考えるがゆえなのだろうが、鳴海には些か、幼い瑠璃への同情を禁じ得なかった。

(揃いも揃って嫌味なやつばかりを指南に宛がわれて……)

 指南役の中には女も男もあったが、どれも大抵、嫌味な性分をした者ばかりのようだ。

 皆、稽古を通して、姫君としての心構えを説いているつもりなのかもしれなかったが、日にこれだけの人数から似たような小言を幾度も聞かされるのは、正直、傍で聞いている鳴海まで苛々とさせられる。

 正面攻撃を受けている瑠璃などは、もっとうんざりしていることだろう。

 たまには言い返せば良いのにと思うのだが、稽古中に瑠璃が発するのは、挨拶と、嫌味に対して詫びる言葉のみ。

 それがまた少々鳴海の神経を逆撫でした。

「全くあの姫君は気が弱いのか強いのか、一体どういう性格なのだ」

 生来が白黒はっきりとした性格であるだけに、回りくどい皮肉を言う者も、それに言い返さず腹に溜め込む者も好かない。

 今も豪奢な襖の向うでくどくどと遣り込められている瑠璃の気配を感じながら、鳴海は今日何度目かも知れぬ独り言を溢した。

 

 ***

 

 一日の殆どが、こうして稽古事に費やされる。

 稽古の合間の極短い一時に小さく息継ぎする程度で、当然ながら瑠璃の自由な時間などはないに等しい。

 瑠璃がすべての稽古から解放されたのは、既にとっぷりと日が暮れた後のことだった。

「それでは姫君。これにて御前を離れることをご許可頂きたく──」

「……ふう」

 十歳にしては妙に老け込んだ溜息をつき、瑠璃は脇息に突っ伏した。

 一日の役目を終え、退出の挨拶をしようと正面に座した鳴海さえ視界には入っていないらしい。

 夜は侍女らが側に配置されるため、当然ながら護衛は一時お役目御免となる。

 姫君の一日を垣間見て、瑠璃には窮屈で気苦労の多い日常だろう、とさすがの鳴海も心中ひっそり同情する。

 一見言い負かされてばかりいるようだが、それはある意味では最も利口な対処の方法だ。少なくとも、今の瑠璃にはそれが最善の対処法だろう。

 ああいう輩は、兎にも角にも口が減らない。

 一つ言い返せば、後が厄介なことになるのは目にも明らかなのだ。

「姫君」

 ぐったりと項垂れる瑠璃に、鳴海は再度声をかける。

 すると、今度は漸く瑠璃の頭が重たそうに擡げられた。

「お疲れのところ、甚だ恐縮ではございますが……」

「ああ、まだ居たの」

 当人に悪気はないのだろうが、まだ居たかとは、なかなか酷な言い様である。

「まだおりました。一応護衛ですからな」

「……そうだっけ」

「そうです」

「先に言っておけば良かったけど、私に護衛なんて必要ない。今日一日見てたなら、分かるでしょ」

 相当疲れが出ているのか、瑠璃は不貞腐れたような顔で、実に不機嫌そうな声を出す。

 稽古中には絶対に見せなかった一面だ。

「姫君に必要なくとも、これが私の職務。仰せ付かった以上、役目を全うするまでです」

 一瞬、むっとしたのは言外に、鳴海は生真面目に返す。

 両者、笑顔の欠片もないままに、少々剣を含んだ視線を交えて拮抗した。

 そして、鳴海は形式的に座礼をすると颯爽と立ち上がる。

 鳴海がもう一度瑠璃に目を向けた時には、瑠璃はもう鳴海を見てはいなかった。

 顔ごとそっぽを向いたまま、

「ならば気の済むようにいたせ」

 と、素っ気無い一言が返されたが、瑠璃はもうこちらを振り返るつもりはないようだった。

「仰せのままに。では、明日」

 同じく素っ気無い口調で言い、鳴海は瑠璃の傍を辞した。

 

 

 【二.へ続く】

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