一.姫君(3)

 

   ***

 

 妙な御子だ。

 だが、あれだけ闊達な物言いが出来るとは、少々意外である。

 どうやら大人しいだけの姫君ではなさそうだ。

 磨けば随分と変わることだろう。

 ぱたりと音を立てて襖を閉めると、鳴海の目前には見慣れぬ年配の女の姿があった。

「もう御用はお済みですか?」

 にこりと微笑む目尻には、微かに皺が寄るものの、その物腰と佇まいは品位に満ちたものである。

 その雰囲気から、鳴海はすぐに女性が琴の指南役だと悟る。

「ああ、授業の前に失礼致した。姫君がお待ちですぞ」

 鳴海はそう告げて立ち去ろうとする。が、すれ違い様に呼び止められてしまった。

「護衛を任された方でしたら、如何なる時でも姫様のお傍に控えていなければ」

「は? しかし……」

 授業の邪魔になってはいけない、と続けようとしたが、それも彼女に遮られた。

「ふふ、誰も同じ部屋の中に、とは申しておりませぬ」

 どうやら、次の間で待っていろ、ということらしい。

「ああ、はあ……それならば」

 と、鳴海は已む無く頷く。

 鳴海が襖戸の前に座り込むのを見届けると、女は部屋の中へと消えた。

 間もなくして、今一度ぱたりと閉じられた襖戸の向うから二言三言の話し声が聞こえると、鳴海は軽く吐息した。

(なんで私がこんなところで待たねばならんのだ)

 実際には次の間で控えるなど、そんな必要はない。

 近衛とはいえ、男が姫君の身の回りにべったりと付き添うことは出来ないのが常だ。

 姫君付きの侍女こそ、今この場に控えていて然るべきだというのに、侍女らしき者の姿は影も形もない。

 まさか侍女を付けてもらっていないのか、と疑問にも思ったが、大名の姫君──しかも第一子で正室の子である瑠璃がそんな薄遇を受ける道理はないだろう。

 やがて、伸びやかな琴の音が聞こえ始めた。

 それはすぐさま瑠璃の演奏だと直感する。

 噂に違わず、確かに上手い。

 鳴海自身は当然琴など嗜んだ経験はないが、それでもいくつもの席で筝曲を耳にした経験はある。

 名手と謳われる奏者の演奏とは、やはりどこかで幾分かの差があるように思われたが、それでも秀逸と言って良い。

 少々緊張したような琴の音だったが、懸命に絃を弾く瑠璃の姿を脳裏に浮かべてみれば、それもまた愛嬌があって実に良いものだ。

 暫時。

 職務も忘れて聞き入っていた鳴海の耳に、突如不快な不協和音が飛び込んだ。

 同時に瑠璃のものと思しき演奏もぱたりと止んでしまったようだ。

「何度申し上げたらお分かり下さいますのか、姫様!」

「……申し訳ありません」

(何事だ?)

 やや厳しい口調で叱咤する声と、消え入りそうに詫びる声。

 無論、どちらがどちらの声なのかは、目に見ずとも分かる。

「御指に力を入れ過ぎるから指が絡むのです。それに音色が硬うございますよ、もっと肩の力をお抜きあそばされませ」

 言葉は至極丁寧だが、指南役の声には露骨な刺々しさがある。

 武術の稽古で怒鳴られるのとは、また随分と雰囲気が違うことに、鳴海は少々感興をそそられる気がした。

 とは言え、あまり楽しげな興味でないことは確かだったが。

「すみません」

「前回も、前々回も、そのまた前のお稽古でも申しましたでありましょう。そのような乱暴な演奏では、お教え申し上げているわたくしのほうが恥を掻きまする」

「………」

(おや、黙り込んだ)

 もとよりどことなく儚げな印象の姫君が、じっと俯いている様子が鳴海の脳裏に浮かんだ。

 まだ幼い姫君が冷ややかな嫌味を浴びせられて項垂れていることを思うと、可哀想にと思わずにはいられない。

 が、鳴海は同時に先刻ぴしゃりと物を言い、鳴海を遮った瑠璃の態度を思い起こした。

(顔も上げずに名乗る奴は嫌いだとか言いおったんだったな、あの姫様は)

 大の大人を前にしてあれだけはっきり物を言うならば、そこそこの根性も備わっているだろう。それこそ、この程度の嫌味は撥ね付けられるくらいの根性が。

「このようなことでは、丹羽家の姫君は務まりませぬ! 丹羽家次期御当主の御正室となるべき御方が、他家の姫君に劣るようなことがあってはなりませぬ。高みを行かねばならぬこと、肝に御命じ下さいましね。さ、もう一度はじめから」

 間もなく、室内からは琴の音が流れ始める。

(あの師匠殿も、きついお人だ)

 瑠璃の演奏は、琴の師匠からしてみればまだまだ未熟なのだろうが、鳴海の耳には聴き入ってしまうくらいの演奏だ。

 無論、指南役にもその指導方針というものがあるだろう。流石の鳴海も素人にして、その指導に物申す気にはならない。

 だが、少々気掛かりなのは、その指導の中で逐一瑠璃の立場を強調していることだ。

 あれでは臍も曲げたくなるだろう。

 姫君というのも何かと肩の凝る立場らしい。

 鳴海は一つ肩を竦め、その後一刻余りの間、琴の音色と指南役の神経質な声を聞きながら過ごした。

 

   ***

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