一.姫君(2)

 ***

 

 日が中天に昇ろうとしていた。

 漸く手習いを終えた瑠璃は次に琴を学ぶに備え、城の一室でじっと師の訪れを待っていた。

 浮かない顔で振袖の袂を弄る様子は、きっと師に見つかればぴしゃりと注意を受けるだろう。

 小さな姫君が部屋に独り、ぽつりと座り込む姿はどこか切ない。

 それが、鳴海が初めて見る丹羽家一の姫の姿だった。

 登城後、鳴海はいつもの朝稽古を一通り行い、それから漸く姫君との面会を許可されていた。

「あちらが姫様ですよ。穏やかな御方ですが、少々気難しいところもおありです」

 ここまで鳴海を案内してきた女中が、室内に届かぬよう声を潜めて言う。

 細く空いた襖の隙間から、鳴海は一目、その姿を垣間見た。

「姫様は滅多に外出なさいませんし、護衛と言ってもそうそうご苦労をおかけすることはないでしょう」

 言葉の通り、何の懸念も抱いていない風に、女中は説明した。

 確かに、見たところ大人しい女子のようだ。

 大人しいというよりは、寧ろ内向的な印象さえ受ける。

 女中の言うように殆ど外出がないというのなら、何故わざわざ鳴海のような重臣を近侍に添える必要があるのか。

 些か腑に落ちない指令だが、聞けば今回の人事は藩公の母君──即ち瑠璃姫には祖母にあたる──からの要請であったという。

 張り合いのない役目とはいえ、当面はあの内気そうな姫君が直属の主となるわけだ。

 鳴海は少々気を引き締めるつもりで、掌で裃を均した。

「姫様、お琴の前に少々お時間を頂戴致してもよろしいでしょうか?」

 分厚く豪奢な唐紙を貼った襖戸をすっと引き開け、女中が室内へ声をかけた。

「どうぞ」

 襖に遮られた室内から返った声は、件の姫君のものだろう。

 心細げに聞こえた。

 ゆるゆるとのんびりした御子なのだろう。

 とは言えやはり一国の姫君であることに相違はない。

 鳴海は幾度も裃を撫で付けては、緊張感を保とうと試みた。

 だが、姫の護衛役というのは、どうにも己の気持ちの根底で拒否しているらしい。

 正直なところ、こういった子どもの、しかも女童の傅役など御免蒙りたいところだ。

 もっとこう、弓馬槍刀でもってびしびしと厳しい稽古をつけてやるとか、そんな役柄が一番性に合っている。

(ぐあぁ……こういうのはどうにも馴染めん……!)

 独り煩悶を繰り広げる鳴海に、女中から声がかかった。

「大谷様。さ、お通りください」

「おお!? あ、ああ。かたじけない」

「? ……大丈夫ですか」

「だ、大丈夫だ。ちょっと孤独な葛藤をしていただけだ」

 ゲホン! と一つ咳払いして動揺を誤魔化すと、鳴海は襖の手掛りを退き開けた。

「姫君、お邪魔致しますぞ」

 言って一歩中へ踏み込むと、鳴海はすぐに膝を折り、座礼する。

「この後姫様は琴のお時間ですので、あまり長話をなさいませんよう」

「分かっている」

 女中は背後から念を押すと、やがて襖戸を閉めて下がっていった。

 女中が遠ざかるのを感覚で悟りながら、鳴海は目前に鎮座する新たな主に向けて口を開いた。

「この度、姫君の護衛役を仰せ付かりました。家老大谷彦十郎が嫡男、大谷鳴海と申します。姫君におかれましては、以後ご承知置き下さいますよう、何卒……」

「あの、手短にお願いします」

「!!!」

 鳴海は軽く衝撃を受けた。

 人がわざわざ懇切丁寧に挨拶口上を述べているというのに。

(遮りおった……! 大人しい顔して、この私の挨拶を遮ったっ!!)

「ついでにもう顔を上げてもよい。顔も見せずに名乗る奴は嫌いじゃ」

「! こここ、これは大変失礼を……」

 鳴海はそう詫びて徐に顔を上げた。

 内心、

(初っ端から嫌われた!!)

 と、鳴海は僅かに、いや結構焦りを感じる。

 いくら気の進まない役目であっても、初日からクビを言い渡されたのでは大谷家の面目に関わるというもの。

 ──少々気難しいところがおありです。

 さきほどの女中が言っていた一言が、脳裏をぐるぐると旋回し始める。

 少々どころではないではないか。

(こっの小娘が……!)

 とか何とか思っていることは、口が裂けても言えないのだが。

 鳴海は早くも先の思い遣られる心境で顔を上げた。

 目の前にゆっくりと、まだ細く頼り無げな姫君の姿が視界に現れる。

 そうして、瑠璃と視線が絡んだ。

 その言動から、きっと小憎らしい顔をしているに違いないと思っていた主の、寂しげな眼差し。

 その姫君は、決して意地の悪そうな顔はしていない。

 この年頃特有の華奢な可愛らしさがあった。

 だが、同時に十歳とはとても思い難い堅さがある。

「私が瑠璃じゃ。よろしう頼む」

 言葉の端々に、可愛らしさというものが微塵も含まれていない。

 大人びているとか、そういう次元ではない気がした。

「は、はぁ。以後側近としてお仕え申上げます故、何事かあれば真っ先に私をお呼び下さい」

「ありがとう」

「いえ……」

 抑揚すら欠いているような、主たる姫君の無感情な口調。

 これが十を算えたばかりの姫君なのだろうか。

 気弱そうに見えるのに、口調におどおどした部分がない。

 心細げな小さな声だというのに、発する言葉に迷いが感じられない。

 鳴海の目は、自分の半分にも満たないであろう小さな姫君を捉え、暫時凝然と見ていた。

「……」

「……」

「……どうかしたか、鳴海」

「えっ!? あいや、何でもありません」

 怪訝そうな瑠璃の視線に慌て、鳴海は即座に居住まいを正した。

「ひ、姫君はこの後、琴のお時間と伺っております。私はこれにて」

 鳴海は、すぐに琴の師が来るだろうと遠慮を示す。

 すると、ほんの僅か、瑠璃の表情に変化があったように見えた。

 口では一言、

「……そう」

 と素っ気のない返事をしただけだったが、その声音が明らかに沈んでいる。

 鳴海がこの場から去ってしまうのを惜しんでいるように感じたのは、単なる気のせいだろうか。

「それではまた、後ほど改めてお伺い致します」

 鳴海はどこか後ろ髪を引かれるような思いで、座礼をし、退室した。

 瑠璃もまた、引止めはせずに黙ったままだった。

 


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