~僕はただの素人物書きなのに~

第8話 8.新作は罠を仕掛けて

 基本的に家で仕事をしている龍己は、休みの日というものがない。

 規則正しい生活をしているようだが、春香が来る前はそうではなかったようだ。


「毎朝春香にご飯を作って、昼ご飯にはお弁当を作ったのを食べて、晩ご飯は春香と食べて、次の朝のために寝る。仕事は午前中と午後にして夜にはあまりしないようにしてから、調子がいいんだ」

「僕と暮らし始めてから調子がいいのですか?」

「毎日ご褒美があるからな。それも大きいだろうな」


 春香の文章は一日の疲れを癒す回復薬とまで言ってくれる龍己は、素人だが小説を書いているものとしては嬉しいし、龍己のためだけに書こうと考えてしまう。龍己は春香にとって悩みを聞いてくれるよき年上の友人で、自分の世話を焼いてくれる優しい相手だった。

 誕生日にはケーキを準備してくれて祝ってくれる。

 こんなに暖かく春香を迎え入れてくれて、大事にしてくれる相手を春香は知らない。龍己を逃せば二度とこんな優しい相手はいないのではないかと春香は恐れていた。

 龍己に拒まれることのないように、上手に手中に落として行かなければいけない。

 後日談を書き終えて新しく書き始めた小説は、はっきりと龍己と春香をモデルにしていた。完結させた小説も龍己のことは意識していたが、こんなにもはっきりとモデルにするのは初めてだ。

 気が強くて、世話焼きで、恋人には優しい料理上手の在宅勤務の主人公と、大学生のお相手。さすがにルームシェアという部分までは一緒にしなかったが、隣り同士の家に住んでいる幼馴染ということにした。

 幼馴染設定は龍己が大好きなのを知っている。男女の恋愛ものを書いたときにも、龍己は幼馴染の二人が成長しながらお互いを意識していく場面をものすごく気に入ってくれていた。

 あまり接触はなかったとはいえ弟と妹を見てきたせいか、春香は子どもを書くのが好きだった。得意かどうかは分からないけれど、子どもの描写を読者に褒められたことがある。その部分も活かすために、お相手の幼少期に主人公と出会って、何度も回想を入れる形式にする。


『おおきくなったら、けっこんしてくれる?』


 問いかけるお相手に、主人公は答える。


『大人になっても気持ちが変わらなければな』


 主人公はお相手のことを小さい頃から可愛がっていて、他は寄せ付けないのに、たった一人だけ傍にいて心安らぐ相手という設定にしている。お相手が育つにつれて意識してくる主人公。お相手に抱かれることを考えて、『俺が抱かれるなんて』と躊躇いを見せる。

 大学が休みの日なので存分に書いていたが、夕飯に呼ばれて春香はそんなに時間が経っていたのかと気付く。洗濯物の片付けも風呂の用意もしていない。


「ごめんなさい、龍己さん。洗濯物の片付けとお風呂の用意をしたら、すぐ行くのです」


 答えて急いでテラスに出て洗濯物を取り入れて畳んで片付け、お風呂を洗ってお湯を溜める春香。それが終わるまで龍己は辛抱強く待っていてくれた。

 料理も洗濯をして干してもらうのも龍己にやってもらっているのだから、洗濯物を取り入れて畳んで片付けるのと、お風呂の用意と、食後の食器洗いだけはきちんとしたい。そうでなければルームシェア解消を言い渡されそうな気がしていたのだ。


「今回の作品はラストまでものすごくよかったな。二人の気持ちが通じ合って、市役所でパートナー制を申し込むところまで幸せいっぱいだった。読んでる俺まで幸せな気分になれた」


 敢えて濡れ場には言及せず、小説の感想を言う龍己に、春香は龍己が自分の小説で乱れていたことを知っているので思わず無言になってしまう。

 喋らないで鰆のムニエルとワカメとキノコのスープと生野菜のサラダを食べている春香に、龍己が僅かに曇った表情になった。


「言いにくいかもしれないけど、俺にははっきり言ってくれるか?」

「な、なんですか?」


 龍己の痴態を覗いていたこととか、龍己で自分を慰めたこととか、そういうことを指摘されるのかと椅子から飛び上がりそうになった春香は、胸中でどう誤魔化そうか必死に考えていた。



 春香の心配は外れていて、龍己が続けたのは全然別の話題だった。


「次の作品の構想があるって言ってたけど、まだ書けてないならいいんだ。一日くらい書けないことはある。俺にだってあるんだから、気にしなくていいよ」


 言われて春香はやっと気付いた。龍己のタブレット端末に今日は書いた小説のデータを送るのを忘れていた。


「俺がものすごく楽しみにしてるから言いにくいのかもしれないけど、そういうことは気にせずに言ってくれ。楽しみが先に延びるだけだ。まぁ、今日は俺には回復薬はないのかとしょぼくれて寝るんだがな」


 最後は笑いを交えて言ってくれる龍己に、春香は口いっぱいの頬張っていたご飯を飲み込んだ。


「ち、違うのです。今日の分もちゃんと書いたのです。データを送り忘れたので、後で送りますね」


 もうパソコンの電源を落としてしまっていたから、すぐには送れないが、食後に食器洗いをしたら送ると約束すると龍己の表情が明るくなったのが分かった。


「なんだ、そうだったのか。今日も俺には回復薬があるんだな」

「あるのです。回復薬になるかどうかは分かりませんけど」

「いや、なる! 春香の小説なら俺はどんなものでも萌えられる!」


 宣言した龍己が明らかに浮かれている様子に、春香はこんなにも自分の小説を楽しみにしてくれているのだと嬉しくなる。

 小説で龍己を虜にしてしまえば、龍己は春香の手中に落ちて来てくれるのではないか。

 春香の計画は地味に進んでいた。

 食器を水で流して食洗器に入れて洗剤を入れてスイッチを押してから、春香は自分の部屋に戻った。ノートパソコンの電源を入れて、データを龍己のメッセージに送る。送り終えてからパソコンの電源をもう一度落としてリビングに戻ると、龍己はお風呂から上がって来たところのようだった。

 濡れた髪をバスタオルで拭いているのが色っぽい。


「データ送っておいたのですよ」

「送ってくれたのか。ちょっと見ても大丈夫か?」


 テーブルの上に置いてあったタブレット端末を手に取って、龍己が春香が今日書いた分の小説を読み始める。冒頭から濡れ場はないので、安心して春香の前で読んでいるのだろう。

 椅子に座った春香のために普段ならば紅茶か緑茶を淹れてくれるのに、それも忘れて夢中で読んでいるのが分かる。


「今度は幼馴染か……やっぱりボーイズラブなんだな」

「ボーイズラブは苦手なのですか?」

「いや、春香の文章に苦手などない!」


 はっきりと言って龍己が熱く語り出す。


「春香の文章は簡潔で読みやすくて、俺の中に沁み込んでいくみたいなんだ。何より、登場人物の関係性が萌える!」

「この後二人はどうなると思いますか?」

「そうだな……大学で県外に出ようか迷う相手を、主人公は引き留めていいか苦悩するんじゃないか?」

「それいいですね」

「相手の方も止めてもらえないから、すれ違いが起きる」


 幼馴染設定もだが、すれ違いも龍己の好きなシチュエーションの一つだった。


「すれ違いの末に離れ離れになりそうになって、お互い気持ちに気付くのですね!」

「そう、お互いが唯一無二だと気付くんだよ」


 投稿サイトで出会ってSNSで話すようになり、メッセージアプリの連絡先を交換してから毎晩のように春香と龍己はお互いの小説について盛り上がって夜遅くまで語り合った。

 受験期間はあまり春香は小説を書けなかったが、龍己は『勉強捗ってる?』とか『元気にしてる?』とかこまめに連絡をくれていた。

 その結果として春香は龍己に進路の相談をすることができて、偶然志望大学の近くだった龍己の家にルームシェアすることができた。

 春香にとっては奇跡のように手に入れたこの場所を手放すことはできない。龍己に中途半端な状態で告白をすれば、ルームシェアも解消されて、春香は一人追い出されるかもしれない。

 もっと深くまで龍己を自分に溺れさせたい。

 その手段が小説しかないことが春香はもどかしかった。

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