後編 (ギルベルト視点)

第16話 エリーアスとの暮らしの始まり

 バルテン国の将軍のアードラー家に生まれたギルベルトは、幼い頃から口数の少ない大人しい子どもだった。自己主張の激しい兄と弟に挟まれて、ギルベルトが大人しくならざるを得なかったのだ。

 出先で兄と弟が逃げ出して迷子になれば「そこで待っていろ」と言われて夕刻まで待たされて、すっかりと存在を忘れられて屋敷に戻ってくれば、誰もギルベルトの不在に気付いていない。影の薄い子どもだったギルベルトはおやつをもらっても兄が足りていなければ半分渡し、弟の欲しがる目にもう半分を渡し、自分は何も食べないようなことばかり続けていた。

 自分は必要のない人間で、兄と弟がいればアードラー家は成り立つと15歳で飛び級して師範学校を出て初陣に出て、それ以来アードラー家には戻っていない。

 自分の命に価値など見出していなかったギルベルトの世界を変えたのは、エリーアスの存在だった。

 健康診断などいらないと言うギルベルトに強固に必要だと押し切って診察をしてくれた。傷だらけのギルベルトの身体を心配してくれた。

 触れられるのが嫌いだというのに、ギルベルトに抱かれてくれた。ギルベルトは抱いているのに抱き締められているようで、初めて自分が満たされるのを感じた。

 メンタルケアだと言ってギルベルトの話を聞いてくれた。自分の話をするのは時間の無駄で、兄弟たちも聞きたがらなかったのに、エリーアスはギルベルトの話を穏やかに聞いていてくれた。

 攻撃に遭えば庇ってくれて、最終的には左腕と左脚を失うことになっても、エリーアスはギルベルトを責めずに、ギルベルトの心配をしてくれた。

 これが愛でなくて何なのだろう。

 初めてひとに愛された。ギルベルトも間違いなくエリーアスを愛している。

 押しかけて行った部屋でエリーアスは奇妙な反応をしていたが、ギルベルトはそれは照れ隠しなのだと受け取った。慎ましやかなエリーアスは愛情を表現するのが苦手なのだ。

 それならば、ギルベルトが愛情を表現すればいい。


「エリーアス、何が食べたい?」

「あなた、料理が作れるんですか?」

「レシピを検索すれば大体できると思う。エリーアスが教えてくれるのが一番いいんだけど、今日は疲れているだろう?」


 無理をさせる気は全くない。愛しているのだからエリーアスはギルベルトに誰よりも大事に扱われるべき存在なのだ。

 キッチンに立ったギルベルトは冷蔵庫に何も入っていないことに気付いて、少し思案した。冷蔵庫の中にあるもので夕食を作ろうと思ったのだが、長期で家を空けることが分かっていたエリーアスは冷蔵庫の中身を処分していた。


「冷凍庫にパンがある。これをトースターで焼けばいいな」

「自分でやるのであなたは座っていてください」

「『あなた』じゃなくて、名前で呼んで欲しい」


 たった一度だけ、エリーアスはギルベルトの名前を呼んだことがあった。敵国の子どもが手榴弾を取り出して、エリーアスとギルベルトの命を奪おうとしたときだ。あのときのように呼んで欲しいと強請ると、実に奇妙な顔をされてしまう。


「ここでアードラー隊長と呼ぶのもおかしくないですか?」

「俺の名前はギルベルト! ギルでも、ギルベルトでもいいよ」

「名前で呼び合うような仲ではありませんし」

「俺はエリーアスのことをなんて呼ぼう。エリーアスじゃ物足りないんだよな。もっと親しくなりたい」


 エリーアスの言葉は完全に無視して続けるギルベルトに、エリーアスが沈痛な面持ちで額に手をやっている。怪我の後遺症で頭痛が出ているのかと、ギルベルトはエリーアスをソファに座らせた。


「エリー……うーん、何か違うな。エリさん。うん、悪くない。エリさん。俺のことはギルかギルベルトって呼んでくれよ」


 笑顔で言って冷凍されたパンをトースターで焼いて、冷凍のトマトソースを解凍して、チーズをのせて簡易ピザパンを作る。エリーアスを暮らすのならば、食材を買い込みに行かなければいけない。


「これ……私のお皿に二枚乗っていますが」

「一枚じゃ足りないだろう。食べてくれよ」

「あなたの分は?」


 ギルベルトと呼べと言っても頑なに呼んでくれないエリーアスはどれだけ恥ずかしがり屋なのだろう。恥ずかしいのならば仕方がないが、ベッドではギルベルトと甘く呼んでくれるかとギルベルトは期待していた。

 自分の分など考えていないギルベルトに、簡易ピザパンを一つ手に取ると、エリーアスがもう一つをギルベルトの方に皿を寄せる。


「お茶をもう一杯淹れてくれますか? 一緒に食べましょう」

「俺も?」

「あなたが作ったのに、あなたの分がないなんて馬鹿げたことは言わないでください」


 アードラー家にいた頃は兄弟たちにおやつも食事も分け与えていたから、空腹もギルベルトは気になる体質ではなかった。仕事が忙しいと食べることを忘れるくらいで、食に執着などない。

 それなのに、エリーアスに食べろと言われるとお腹が空いてくる気がするから不思議だ。

 もう一度お茶を淹れてマグカップに注ぐと、エリーアスがトーストされたパンをさくりと音を立てて齧る。淡々と食べているエリーアスに、ギルベルトも簡易ピザパンに手を伸ばしてそれを食べた。

 食後にバスルームに入る前にエリーアスが義手と義足を外している。傷口は金属で埋められて、肩と膝に接続部が見えているのだが、それすらも美しいと思ってしまうギルベルトがいた。この傷はエリーアスがギルベルトを庇って受けた傷で、愛の証だった。


「シャワーを手伝うよ」

「結構です。一人で入れます」

「その……洗ったりしないといけないんだよな?」


 口ごもったせいでエリーアスはギルベルトが期待していることに気付いたようだった。眉間に皺を寄せて怪訝そうな表情になっている。


「あれは戦場という特殊な場所だからあり得たことで、あなたは勘違いしているんですよ。私より女性の方が面倒もないし、一国の英雄様が何の地位もない研究医と体の関係があるなんて、醜聞にしかなりえませんよ」

「そんなに俺のことを心配してくれるのか? 俺は平気だ。俺にはエリさんしかいない。エリさん以外を抱くことなんて考えられない」

「どういう思考回路をしているんですか」


 呆れられている気がするが、単純に今日は疲れていて受け入れたくないのだろうとギルベルトは判断した。エリーアスが拒むのならばギルベルトはどれだけでも我慢するつもりはある。


「下心は捨てる。シャワーは手伝わせてくれ」


 右側からエリーアスを抱き上げると、左腕と左脚がない分軽い気がした。一抹の寂しさは感じるが、それくらいでギルベルトの愛が変わったりしない。


「ちょっと、待ってください。あなたは、何がしたいんですか?」

「手伝うだけだ」


 左腕と左脚を失ったエリーアスが不便をしないように生活していける環境を整えることも、ギルベルトとしては当然しなければいけないことだった。ギルベルトはエリーアスと一生共に生きていくと心に決めたのだから。

 それを全く口に出していないがために通じていないことに、ギルベルトは少しも気付いていないし、エリーアスは抵抗するが恥じらっているだけで、本当は自分のことを愛しているのだと信じて疑っていなかった。

 エリーアスの服を脱がせて抱きかかえたままシャワーを浴びさせると、エリーアスはもはや諦めたように力を抜いていた。体に酷い傷は残っていなくて、左肩と左膝の傷は金属の接続部に覆われて見えることがない。

 丁寧にエリーアスの身体を洗って、バスローブを着せて、自分はびしょ濡れのままエリーアスをソファで休ませる。エリーアスが髪を乾かしている間にギルベルトは手早くシャワーを浴びて、エリーアスの元に舞い戻っていた。


「水分補給をするか?」

「そうですね。お茶をいただきましょう」


 エリーアスが自分を頼ってくれるのが嬉しくて、ギルベルトはいそいそとお茶を淹れる。お茶だけは完璧に淹れられるようになっていて、エリーアスも飲みながら、小さく「美味しい」と呟いてくれるのでギルベルトは満たされていた。


「明日は食材を買いに行って、職場にも顔を出さなければいけません」

「俺もついていくよ」

「職場まで来るんですか?」


 露骨に嫌な顔をされたのは、エリーアスが男性同士の恋愛関係を職場に知られたくないからだろうか。弟のユストゥスにギルベルトが話そうとしたのも遮って、言わないで欲しいと言われていた。

 ついていかない選択肢はなかったから、ギルベルトは必死で言い訳を考えた。


「エリさんは俺を守った英雄だ。狙われないように護衛をするよ」

「待ってください。英雄はあなたの方ですよ? 護衛が必要なのはあなたです」

「俺の中では、エリさんの方がずっと大事だ」


 これだけは譲らないと宣言するとエリーアスが長くため息を吐いた。義手と義足を外しているので、エリーアスのバスローブの左袖の中身は空で、左膝から下も存在していない。


「私が腕と脚を失った件について、あなたは責任を感じているのかもしれませんが、最先端の技術に触れられて、最高の義手と義足を与えてもらった。私はそれほど困ってもいないし、不満も抱いていないのですよ」

「エリさんの義手と義足は一番いいものをと注文しておいてよかった。エリさんが暮らしやすければ俺も嬉しい」

「んん? そういう話でしたか?」

「エリさんの件にかんしては、俺が責任をもつから安心してくれ」


 エリーアスを自分の人生を懸けて幸せにする。ギルベルトはそのことだけを考えていた。

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