第12話 戦争の終わりの兆し

 出陣していくギルベルトの部隊から怪我人が激減した。医務室で怪我人の対応に当たっているエリーアスはそれを一番実感している一人だった。以前よりもギルベルトの進行は慎重になってきたようだ。


「隊長が自分の命を守ろうとしているんですよ」

「それは良かったですね。少し痛みますよ」

「は、はい。ぎゃっ!」


 怪我をして戻って来た隊員の傷口を消毒して縫って行くエリーアスに、隊員が潰れた蛙のような悲鳴を上げる。淡々と傷口を縫いながらも、軽傷の隊員が二人出るくらいでギルベルト自身は怪我もせずに戻ってきたことをエリーアスは安堵している自分に気付いた。

 怪我人が出るとエリーアスの仕事が増えるので、それがなくなっただけでも安心する。他人が生死の境をさまよう姿などエリーアスは見たくなかった。

 他人の体温が苦手なように、エリーアスは他人の生きている証のようなものが苦手だ。それが失われることを想像してしまう臆病さから恐怖が来ているのだと自分でも分かっているが、流れる血や、吐息を感じるのがものすごく苦手だった。

 処置を終えた後で吐きそうになっているエリーアスの元にギルベルトがやってくる。その肩に凭れて息を整えたいと思ったのは、エリーアスがギルベルトだけはなぜか触れても平気だと分かっているからだろう。

 顔色の悪いエリーアスを座らせて、ギルベルトはミネラルウォーターのボトルを差し出してくれた。冷たい透明なミネラルウォーターを飲んでいると、吐き気が少しは治まる。


「二人の怪我はどうだった?」

「軽傷です。内勤をする分には支障がないでしょう。全治一週間程度ですね」


 報告をすると、ギルベルトが書類にそれを書き込んでいく。隊員の怪我の様子もギルベルトは正確に把握していた。


「ハインツェ先生の体調はどうなんだ?」

「私ですか? 健康ですよ」


 答えるエリーアスにギルベルトが眉根を寄せている。


「顔色が悪かった」

「それは、他人に接触したからで、特に体調に問題はありません」


 触れるのが苦手なことはギルベルトには告げていたので、隠すことなく伝えると、ギルベルトはエリーアスの手を取る。医務室には誰もいなかったが、いつ誰がやってくるか分からない状態なのに、手を握られて、エリーアスはギルベルトの手を振り払うか悩む。


「戦争が終わる」

「どこの情報ですか?」

「特効薬が完成したと情報が流れてきた」


 長らく大陸を悩ませている死に至る疫病のワクチンはバルテン国で作り上げていたが、その手法の一部を盗まれて他国でも質のよくないワクチンが作られるようになった。疫病を理由にバルテン国に攻め入ることができなかった他国が、バルテン国に攻めて来たのもその時期だ。

 長く続く疫病を即座に完治させる特効薬が出来上がった。それは確かにバルテン国が停戦の条件として持ち出せる最大の強みだった。


「完成したんですか……」


 ユストゥスに渡していたデータはまだ未完成のものだったが、エリーアスが徴兵されてからユストゥスは特効薬を仕上げたのだろう。弟の功績に胸がいっぱいになっていると、エリーアスにギルベルトが真剣に言う。


「まだ治験段階だが、これから他国との交渉が始まるだろう」

「戦争は終わるのですね」

「交渉が始まっても、前線の血の気の多い連中や、仲間を殺された連中は納得しない。停戦協定が結ばれる前に一気に攻めて来るかもしれない」


 戦争が終わると聞いてこの基地も解散されるのかと考えていたエリーアスに、ギルベルトが厳しい現実を突き付けてくる。停戦協定が結ばれる前に死ぬ気で攻めてきて、一人でも多くの命を奪って、報復をして死んでいく敵兵がいるかもしれないというのは、確かにその通りなのだろう。


「命を無駄にするようなことをして……」

「停戦協定はバルテン国の圧倒的優位で結ばれるだろうから、それくらいなら、仲間を殺した連中を一人でも道ずれにしてやろうって輩がいるんだよ」


 これからはもっと警戒しなければいけないと告げられて、エリーアスは深刻な表情になった。エリーアスからしてみれば、国同士が争うことがなくなって、誰も死ななくなるのならばそれに越したことはない。平和こそエリーアスの求めるところなのだが、前線の基地で何年も睨み合ってきた兵士たちにとってはそうは簡単にいかないようだった。

 これから厳しくなるかもしれない戦況を聞けば暗い気持ちになってしまう。

 せっかくギルベルトも無茶な進軍を辞めて、部隊の怪我人も少なくなってきたところで、特効薬が開発されたといういい知らせまで入って来たのに、エリーアスの心は晴れなかった。


「ハインツェ先生、戦争が終わったら……」

「終わったら?」

「いや、この話は夜にしよう」


 仕事モードではなくエメラルドのような目を煌めかせたギルベルトが何か言いかけて口を閉じる。何の話かと気にはなったが、ギルベルト自身が今話すべきではないと判断したのだったら、エリーアスは深く聞くつもりはない。

 握っていた手を放して、ギルベルトは自分の執務室に戻っていった。

 食堂で夕食を食べてギルベルトの部屋に行くと、ギルベルトは落ち着かない雰囲気でエリーアスを待っていた。エリーアスが来ると、ソファに座らせて、ポットにお湯を注いでいる。

 お湯で温めたポットに茶葉を淹れて、お湯を注いで蒸して、マグカップにお茶を注ぐ。淹れられたお茶は香り高く、エリーアスも美味しいと感じた。


「お茶を淹れられるようになったんですね」

「エリーアスがやっているのを見て覚えたんだ。他にも、エリーアスが教えてくれたら、俺は何でもできると思う」

「教えるのが私でなくてもよいのでは?」

「エリーアスじゃないと嫌だ」


 子どもが駄々を捏ねるように言うギルベルトに不可解な気持ちになりながらも、エリーアスはマグカップのお茶を吹き冷ましながら飲む。外は雪が積もる山岳地帯だが、部屋の中は暖かく保たれていた。


「戦争が終わったら、エリーアスは研究所に戻るのか?」

「そのつもりですね。元々研究職でしたし、臨床医よりもそっちが向いていると思っています」

「ユストゥスのところに帰るのか?」

「ユストゥスとは同じ街に住んでいますが、別の部屋に暮らしていますよ」


 答えるエリーアスにギルベルトがマグカップを両手で包み込むようにして、言葉を選んでいる。一生懸命考えているところが子どものようだとエリーアスは見ながら思っていた。


「戦争が終わっても、エリーアスに会いたい」


 意を決したように顔を上げて告げたギルベルトのエメラルドのような瞳に強い意志が宿っている。これまでにないほど強い意志の宿るギルベルトの目を見て、エリーアスは戸惑っていた。


「この基地を去れば、私と会う必要はなくなるじゃないですか」


 エリーアスを抱いているのも他の相手がいないから性欲処理のために仕方なくであるし、エリーアスにギルベルトがこんなにも執着する理由がエリーアスにはよく分からない。

 身体だけの関係で、戦場という特殊な場所だから他に相手がいなかっただけで、平和が戻ってくれば将軍のアードラー家のギルベルトは引く手あまたのはずなのだ。


「俺はエリーアスがいい」

「何か勘違いをしていませんか?」

「どういうことだ?」

「戦場という危険な場所だからこそ、あなたは私を性欲処理の相手に選んだだけで、そうでなくなれば、あなたにはどれだけでも相手をしてくれるひとはいるわけですよ」


 冷静に、やや冷徹なまでに突き放して答えたエリーアスに、ギルベルトが縋って来る。


「そんなことはない。俺はエリーアスがいい」


 初めて抱いた相手だからギルベルトは何か勘違いをしてしまっているのではないだろうか。エリーアスはギルベルトを納得させるために話をする。


「初めて抱いた相手だから、あなたは私がいいと思い込んでいるだけなんですよ。ここは狭い閉じた世界です。広い世界に出てみれば、あなたはもっといい相手がいることに気付くはずです」

「そんなことを考えて俺に抱かれていたのか?」

「そうですが、何か?」

「気持ちいいって言ってくれたじゃないか。俺もエリーアスを抱いて気持ちよかった。エリーアスと俺は同じ気持ちなのだと思っていた」


 マグカップをローテーブルに置いて必死に取り縋って来るギルベルトに、エリーアスもマグカップをローテーブルに置いた。腕を掴むギルベルトの手をそっと引き剥がす。


「抱かれるのが気持ちいいと言ったのは噓ではありません」

「それなら、なんで?」

「肉体的な快楽と、そういうことは別でしょう? あなたはアードラー家の次男、私はただの研究医。この基地を離れれば接点はありません」


 冷たくも聞こえるエリーアスの声に、ギルベルトは動揺しているようだった。


「とにかく、今日は失礼します」


 こんな話をしたかったわけじゃない。

 エリーアスが部屋を辞そうとしたときに、外側からドアが開いた。

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