第5話 夜明け
「今日はすまんな。俺の勝手に付き合わせて」
「いえ。陛下とお話しできて、光栄でした」
もう闇が深い。店の外へ出てみれば、人通りも大分少なくなっていた。明かりが一つ、また一つと消え、街は夜の安寧に沈みゆく。人々は家に戻り床について、また一日一日を生きてゆく。
ふと、レックスは神妙な顔付きで呟いた。吹き抜けた一陣の風に、彼の纏う薄手のマントが靡く。
「……なあ、人間たちはこの俺でさえ仲間として受け入れられる度量があるのだ。そう考えれば人種や国の違いなど、大したことはないと思わんか。俺のように全くの異種族という訳ではない、同じ人間なのだから」
風に溶けてしまいそうなその言葉をゆっくりと噛み砕いて呑み込み、そうですね、とアルハンが同意しかけたとき、レックスはふっと笑った。アルハンの怪訝そうな顔を見て言う。
「いや、俺も随分変わったものだと思ってな。元いた世界では、家族以外の全てを敵に回していた。種が違ったからな。ところが兄は、どうせ同じ世界に住んでいるなら仲良くすればいいのに、といつも言っていたのだ。種の違いが何故争う理由になるのかと、首を傾げていた。そのとき俺は、とんだお気楽野郎、虚しい幻想と兄を笑ったよ。だが今は俺も兄と同じことを考えている」
懐かしそうな微笑の中に、何か違うものが混じっていたような気がしたのは、気のせいだったろうか。暗闇に紛れて分からなくなってしまったけれども、今、彼の纏う気が確かに揺らいだように思えた。
「また、あちこち巡るのか」
「はい。とりあえず南の方にでも行ってみようかと思います。色々な場所で歌いたいのです。戦で亡くなった人たちのことを、少しでも多くの人が思い出してくれるように」
「ああ。それが、お前の使命──運命なのだろうな。お前の亡き友も嬉しかろう」
『お前の歌は上手いな。きっと、兵士なんかじゃなくて楽士にでもなるはずだったんだろう。こんなつまらない戦いで死ぬより、絶対その方が良かったよ。あーあ、戦が憎いぜ』
レックスの感慨深げな台詞に、あの日亡くした友の言葉が重なった。彼の魂は今日、どこにいたのか。家族のところに帰っただろうか、歌は届いただろうか。
不思議とアルハンの心は晴れた。少なくともこの国では、彼と同じ願いを抱いた王が民を導く、という頼もしさ故かもしれない。レックスの御代には、もうあのような戦いは起きぬであろう。少年たちが夢叶わぬまま未来を奪われ、朽ち果てた身を荒野に晒すこともなくなるはずだ。
「……陛下のことも、いつか歌います。僕たちの願いが、陛下の志として受け継がれていくように」
やや遠慮がちなアルハンの言葉に、レックスは暫し考え込んだが、やがて頷いた。
「もし俺も王の一人として歌い継がれる身となるならば、お前に歌って欲しい。お前なら俺が王として生きた意味を見損なうことはないだろう。雑兵たちの心を、俺の心として伝えてくれ」
「はい。必ず」
空を見上げれば、漆黒の天蓋に数多の星々が瞬いていた。街の青い灯火が消え、星影が際立つ。さながら、死者の魂が天上へ昇ったかのようだった。
「またどこかで会おう、アルハン。我が兄弟よ」
レックスは笑った。まるで古くからの親しい友に向けるような笑みだった。
差し出された手は節くれ立ち、幾つもの創痕が刻み込まれている。部屋に籠もって政務を行っている者の手ではない。何度も剣を握った、歴戦の戦士の手だった。そしてその手は温かく、力強かった。
「汝の旅路に幸あらんことを」
「御許に太陽の輝きと天地の祝福あらんことを」
固く握り交わした手をそっと解き、踵を返す。
アルハンは一度だけ振り返った。王の後ろ姿を心に刻みつけ、再び歩き出す。
レックスは世の末まで愛される君主だ。
そしてその剛勇が敵を屠る様は、決して彼のサーガに謳われぬことだろう。
レックスは再び塔の階段を登り、街を見下ろしていた。記憶はまた舞い戻り、胸中で独白する。
あの頃、何故気付かなかったのだろう。
兄を殺され、復讐に走った。完全に我を忘れて狂い回り、夥しい命を奪った。それが己と同じように、家族を理不尽に奪われて怒り、嘆き悲しむ者を生むとは知らずに。
以来、兄の願いを継ぐと決めたのだ。争わぬと。
兄の死に誓った。己の力を、無意味に喪われる命を一つでも多く救い、大切な人を奪われて苦しむ者を減らすために使うことを。
この国には到底数え切れぬほどの兵がいる。彼ら一人一人が誇りと悲しみを持って剣を握って欲しい。奪う剣でなく守る剣だという誇りと、同じ人間に刃を向ける悲しみを。
そして俺も彼らと同じ一雑兵でありたい。戦の哀しさを、命の重さを、当たり前の幸せを忘れぬ者でありたい。
そう願う王であった。
──夜が明ける。死者が去り、彼らの存在は人々の記憶から少し薄れる。
だが俺はお前たちのことを片時も忘れぬよ、とレックスは曙光に囁いた。
グリスターン神帝記 ―雑兵一人― 戦ノ白夜 @Ikusano-Byakuya
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