第4話 王の信念

 深い嘆息がアルハンの意識を引き戻した。瞠目して王へ向けた視線を、レックスは心底の共感を映した瞳で受け止め、頭を振る。

「俺もあるとき気付いてしまったのだ。支配者からすれば駒でしかない兵士が、敵でしかない異種族が、同じ命を持つとな。それどころか、家族も朋友も、感情も持っているのだと。地位と権力を取り去れば、王も奴隷も変わらぬ。ただ人間であるに過ぎぬのだ。

 俺がこの世に来たとき、大乱の最中のグリスターンを見て殊更にそう思った。故に俺は今でも、兵士たちに敵を殺せと命じることができぬ。そもそも敵が本当に敵なのか分からぬ。であるから腰抜けと陰で笑われる」

 グリスターンは、大陸随一の精強な軍を擁する。兵数も多く、良く鍛えられ、軍紀も乱れぬ。これはレックスと総将軍の人望、そして真っ当な待遇故である。

 ──そんな素晴らしく優秀なグリスターン軍であるが、敵兵はなるべく生かして帰すのが信条であった。幾ら戦が嫌いでも、最低限の自衛は必要であるならば、何も殺す必要はない、戦う術さえ奪えばよい、というのがレックスの考えであった。片腕や片足を失えば、戦場には戻れないが、家族と共に暮らしていくことはできるだろう、と。レックスを良く思わぬが表立った反抗のできぬ者などは、この姿勢を意気地なしと揶揄するのであった。

「馬鹿馬鹿しい、全くもって馬鹿馬鹿しい。玉座、或いは土地、富を望んだ数人の権力者の為に、何十万もの民が死に、飢えたのだ。一度経験すれば分かるはずなのだ、こんなことは二度と御免、してはならないことだと。だがすぐにそれは忘れられ、人は欲望に狂い、流れる血に酔う。悲しき性だよ。戦場で向かい合う敵兵の一人一人が、己と同じようにその身に家族を背負っていたと、その家族を捨て、完全には克服できぬ死への恐れを抱き、運命を嘆く己の写し身であると気付いたならば、剣を捨てて互いの手を取りそうなものだ。何故そうならぬのか不思議でならん」

 人でない王の目には、地位、富、領土等々、俗欲に囚われて繰り広げられる争いがこの上なく不毛に、そして愚かしく映るらしい。彼の価値の基準はそんなところにはないのだった。もっと崇高な領域にあり、もっと身近な日常という場所にある。守られるべきは、今宵のように人々が歌い騒げること、恐れから自由であることだ、とレックスは思うのである。

「寧ろ、味方を鼓舞し、人々に希望と正義という名の麻薬を与えて正気を失わせ、戦意を煽って他国を攻め滅ぼし、楽園を築く英雄など、罪の塊だとしか思えんよ。今あるものに満足しておれば、無駄な血と涙を流さずに済むものを」

 そう吐き切って、レックスはいつの間にか卓に運ばれていた酒杯を口に運んだ。彼の容姿は魔王も斯くや、グラスの中で揺らめく紅の液体は生き血と映ってもおかしくないであろうに、それは豊穣の証の酒としか見えなかった。血が似合いそうで、実のところ縁遠い人物であるようである。

「だからお前のような詩人は貴重なのだ。悪戯に武勇を賛美せず、人を煽らぬ。見るべき真実を映し出す。分かり合える同志はいるのだと思うと、嬉しくてな。しかもお前のような若者が」

 アルハンは唖然としてその言葉を聞いた。王は彼を同志と言った。一介の吟遊詩人にすぎぬ彼を。

 彼を苦しめ、縛りつける過去の記憶が影を落とす顔に、僅かな光明が差した。そしてこの王への深い敬愛の念が、彼の心を震わせた。

「……そういうことだったのですね。陛下が敵味方問わず寛大であらせられるのも──先王を討って、御自らが王となられたのも」

 アルハンは謎多き王の心の一端に触れ、彼が本来何の縁もない世界で人を救い続ける理由を知った。彼が信じる正義を世に布こうとして、そのために玉座に就いたのだということを。

 崇拝の目を向けられてレックスは言う。 

「俺とて、褒められた者ではないさ。この手を血に染めた時期も、到底償い切れぬ後ろ暗い過去もある。俺の信条もまた、正しいとは言い切れぬ。だが俺は俺なりに、民の日常を守るだけのこと」

 一瞬、底知れぬ闇がレックスの瞳を過ったが、それはすぐに消え、固い信念の光が不敵に煌めいた。グリスターンは生まれ変わったのだと、アルハンは思った。

 あの頃のグリスターン。忘れもしない十八の頃、剣の才があるからと、兵士になった。その頃は不敗の帝国軍に憧れと誇りを感じてさえいた。ところがどうだ、初陣は内乱だった。共に飯を食い、語り合い、笑い合った無二の友は、かつての同胞の矢を受けて呆気なく絶命した。手を何度洗おうとぬめる感触は消えず、人を殺したという事実も消えはしない。剣を捨てて戦場から逃げた。争いを憎み、理不尽な死を生み出した王族たちを憎み、友の無念に涙した。そして荒れ果ててゆく故郷を捨て、旅に出た。──しかし今、こうして戻ってきた故郷の、何と平和であたたかいことか。

「長話をしすぎたな。飯が冷める、早く食え」

 そう言って皿をこちらに押しやるレックスを、もう恐ろしいとは思わなかった。




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