第3話 清世問答
断る理由などなく、アルハンは訳が分からぬままレックスに連れられ、とある居酒屋の前に来ていた。
「俺が良く来る店でな」
仮にも一大国の王とあろうものが、このような衆庶の食堂に足を運ぶのかと、またも驚いたアルハンであった。
今宵は祭りであるから、店の前に卓と椅子が出され、屋外で料理や酒が供されている。席は埋まり、立ちながら酒杯を傾ける者もいる有様で、大いに賑わっていた。
「よう、繁盛してるな」
忙しそうに立ち回っていた男主人は出し抜けにレックスに声をかけられ、危うく客に運ぶグラスを取り落とすところだった。
「こりゃあ、陛下じゃねぇですか。どうなさいました」
「店は開けてるか。連れと一杯やりたくてな、外だと目立って敵わん」
アルハンを指して言う。彼はと言えば、ほとんど呆然として二人のやり取りを聞いている。
レックスが身分というものを気にせぬ人物であることは、周知の事実である。だが、実際に目の前で繰り広げられている会話は、一体どこの大将と常連客かと思うほどざっくばらんであった。些か信じ難く、ただただ呆気に取られた。
「お袋が中でやってますよ。どうぞごゆっくり」
豪快に笑う店主の口から白い歯が零れる。不思議なものだ、とアルハンは一人、妙な感慨に浸った。彼、いやほぼ全ての人々が思い描くであろう一般的な王の印象からは、レックスは余りにもかけ離れていた。
「ということだ。お邪魔しよう」
レックスに促されるまま、彼は店へ入った。
「あら、いらっしゃいませ。今日はお一人ではないのですねぇ」
店に入った二人を、白髪の老婦人が前掛け姿でにこやかに出迎えた。
「先刻、総将軍様もいらっしゃいましてねぇ。お席はどうなさいますか」
「どこでも」
「かしこまりました。それじゃこちらへ」
そうして二人は、店の奥の、籐衝立で仕切られた席へ通された。
いざ向かい合うと、やはり緊張した。そして畏れた。致し方ないことではある。何しろ、神帝とまで称され威光あまねく行き渡る、この国の支配者である。最早神話に近い存在が、今、目の前に座っている。銀の刃のような気品は疑いようもなく、魁偉なる姿は幾ら目を瞬かせようとも消えぬ。
「悪いな、いきなり。好きなものを頼んでくれ」
先程までとは打って変わり、レックスは再び鷹揚に、静かに喋った。
「なかなか難しいとは思うが、遠慮は要らん。俺もその方が楽でいい」
アルハンはぎこちなく頷いて、なるべく力を抜こうと努めた。だが、相変わらず解せぬ。各地を流離う若輩の吟遊詩人である自分ごときが、何故グリスターンの王などに食事に誘われるのか、と。
無論、レックスも彼が抱く懐疑は分かっており、訳を話そうと口を開いた。
「何が何だか分からんという顔だな。当然だ、完全に興味本位の、俺の我儘だからな。
──お前が何故華々しい英雄たちでなく地味な雑兵たちを吟ずるのか、訊きたかったのだ。もし良ければ教えてくれぬか」
アルハンは暫し沈黙した。
無言の空気は、決して重くはなかった。だが、アルハンを語らせる何かを孕んではいた。
「……歴史の裏側で、忘れられていく彼らがいたたまれないからです」
絞り出すように呟いた。一度そう口にすれば、言葉は次々と溢れてきた。
「英雄は勿論、優れた人物です。しかし兵がなければ戦えない。英雄以前に、彼らあっての戦い、勝利です。彼らが道具のように扱われるのが悔しいのです。彼らの中に、命を賭して戦ったものが何人もいるというのに……実際に戦うのは兵であって、指揮官ではありません。戦場に散った数千、数万の兵士たちは決して蔑ろにされていい存在ではありません」
そこまで言って、アルハンははっと口を押さえた。総将軍という存在こそあるものの、このレックスが、グリスターン軍の統帥者であることを忘れて喋っていたのである。自分の言は身を弁えぬ諫言に等しい、と気付き、彼の面からさっと血の気が引いた。
慰霊の日だからか、店は青を基調に装飾されている。恐る恐る見遣れば、卓の傍らに置かれたステンドグラスのランプが放つ柔らかな青い光が、レックスの顔を淡く照らし出していた。
「案ずるな、俺はお前が何を言おうと、無礼とは思わぬ。続けろ」
真っ直ぐにアルハンを見つめる目は深い智慧を湛え、口元には悄愴の微笑が浮かぶ。確かに彼の声に怒気は微塵も感じられぬ。
レックスに促され、アルハンは逡巡の後、言葉を継いだ。
「勝者しか歴史には残りません。勝者の中でも名が残るのは、ほんの一握りだけ……それは仕方のないことです。兵たち一人一人の名を伝えゆくのは無論不可能です。それでも、せめて『彼ら』という存在だけは、覚えていなければならないと思うのです。そうでなければ彼らが報われません」
噴き出した感情の奔流に、アルハンの声は揺らぎ、沈んだ。いつかの痛みが蘇ってきた。
「彼らも、人間だったのです。英雄と同じ一人の人間だったのです。一人一人に当たり前の日常があって、感情があって、家族がいて、幸せがあった。それが忘れられてしまう戦いが僕は嫌いです。だから歌で、遺そうと思った。彼らの痛みを語ろうと思った。戦場で、友が僕のすぐ隣で命を失った日から。僕はこうして戻って来ても、僕の心はまだ戦場にいるんだ」
詩人の繊細な心は、悲しみと、苦しみと、悔しさに打ち震えた。レックスがいることも忘れ、あの日の思いと、立てた誓いを噛み締める。
「……全くだ、アルハン。お前の言う通りだ」
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