第41話 針の鼠
アダンはトゥデの家の扉の取手へと、手を伸ばす。
“これでようやく―――、終われる。”
アダンは・・・安堵した。
アダンに生きる価値など無かった。唯一生きる糧であったアリスは死亡した。そしてアリスとの家族関係はそもそも、自らの虚妄であった。
まるで別人の手による所業のようだと思ってしまう。だが、それをしたのは確かにアダン自身。
覆りようもない真実。
“お前は―――“罪悪感”からアリスを守っていた。”
それはアダンが気絶したあとに見た、あの―――“諧謔の影”の言葉だ。
アダンはそれを何度も頭の中で反芻し、“たしかにその通りかもしれない”、と自らを憫笑する。
アダンは、二度朽ちた。
なのにこうして今、生きている。この命は過ぎたものだ。
であるなら、アエを送り届けた区切りの良い今―――、潔く死んでみせるのが、アダンの義務となるだろう。
アダンは取手を握り、手前へと引いた。
そのとき――――――
アダンは考える間もなく、一歩引いた。
そしておぶっている、負傷しているアエには申し訳ないと思いつつも、出来るだけ扉から距離を置くように、後方へとアエをふっ飛ばした。
アエはアダンの背から急に降ろされたため、ぶっ恰好ながらに尻餅をつく。その拍子に腹部の傷の痛みが一瞬、倍加した。
「――――――ッ!」
声にもならない音が出た。中々応えたのだろう。
アエはこのやろう、と言わんばかりにアダンに抗議しようとするが――――――
「え――――――――――――――――――?」
そんな、間の抜けた声しか出せなかった。
ぴとり、とアエの頬に粘り気のある赤い液体が飛びついた。
先ほどまで預けていたその背中は温かく、またおぶってほしいなんて思ってしまうほどであった。アエは人との接触に乏しいから、そう思ってしまうのだろうか。
しかし―――――――――その願いはもう・・・叶わない。
その姿ではどうやっても、アダンの背に乗りかかることは出来なくなったからだ。
アダンの背には、六本の剣が生えていた。
まるで人間がハリネズミに
剣筋にはアダンの鮮血が垂れ、ぽたりぽたりと、血の粒が音を立てて落ちている。
「――――――ゴふッゥ・・・、、、―――」
アダンは咳き込んだ。
吐血。
血の味がアダンの口内を占領した。鉄の刺激的な鈍さを感じる。
間もなく―――――――――、
アダンの背に屹立する六本の剣は、何の合図もなしに同時に引き抜かれた。
それまで留まっていた血が堰を切るように溢れ出す。それは止めどもなく飛散し、
血の池を一瞬にして作ってみせた。
アダンはそれを見て、今まで自分の体内に巡っていた水分量に思いがけず、驚いた。
“こんなにあったんだな。”
あっという間に半分以上の血液が吐出された。
覆水盆に返らず。
もう元には戻るまい。
アダンは刺された箇所に異常な熱が帯びられていることにちょっとした気味の悪さを覚えた。だがそれよりも、どんどんと軽くなっていく自らの体のほうに好奇心を唆られた。
当たり前だろう。血液の大半がもう地面に散らばっているのだから体重は軽くなっている。
アダンはその軽快さからつい、そこら中を動き回ってみたいと童心に帰るような思いであったが――――――体は全く動いてくれなかった。
やがて――――――
アダンは、崩れ、地に伏せた。
視界いっぱいに見える土色の地面。そしてその冷たさよ。もう熱の生成されない体に残る、塵カスほどしかない体温も、その冷たさに吸収されるだけ。
やがて鼓動が聞こえなくなる。五感も薄れた。
そうして―――アダンという世界に帳が降ろされた。
アエは、その生命の終わりをただ目撃するばかりであった。
そして、それはアエだけではなく、目の前にいる“彼ら”もそうだ。
「やあ、久しぶりだなアエ。元気だったか?」
その声は引いてしまうほど、この凄惨な空間とは不釣り合いであった。
陽気すぎるのだ、その声音は。人を殺めたというのに。
一人の男が軽やかな足取りでアエのもとまで近づく。しかしひらりとしたふるまいの中に、アダンの血だけは踏まない慎重さがあった。まるで混血の汚れた血にだけは触れたくはないという気概を窺い知れるようであった。
やがてその男はアエの目の前まで訪れた。
「ヘリックッ―――――――――!!!」
アエは額に青筋を立て、目の前の男をそう呼んだ。
「そう怒らないでくれ、お腹の傷口が開いてしまうよ」
その男―――ヘリックは、相も変わらずその軽薄な笑顔で、歌うように話しかけるのだった。
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