第38話 奇しき跡

脇目も振らず、ひた走る。

そうしなければならなかった。

そうでもしないと、アリスの心は―――狂ってしまう。


あのときのことを―――、アダンのことを考えると、どうしようもなく胸が痛くなる。

だから走る。

こうして走っていると少しだけそれも軽くなる気がするからだ。


今の状況はかなり中途半端だ。

アダンはたしかにゾーアに連行された。だがしかし、まだ誰もアダンが殺されたという直接の現場を見ていない。

だから半端な希望が生まれてしまう。


―――アダンはまだ生きているのではないだろうか?


と。しかし、そこにはまた反対の心が芽生えてしまうものだ。


―――やはりアダンはもう死んでいるのではないか?


アリスは希望と絶望の信号を交互に明滅させていた。


アリスは前も見ず、俯き走る。見つめるのは前後する自らのつま先。

右のつま先が出ていれば、左のそれは引っ込んでいる。

走っているから当たり前だ。

しかしアリスはそれを見て、少しだけ心が軽くなった。こんな気づきとも言えない気づきはなぜかそんな効果を与えてくれる。


そのとき――――――


「―――きゃっ――――――!」


アリスは曲がり角から現れた人影とぶつかりそうになる。その場でなんとか踏みとどまろうとしたが、そうもいかなかった。アリスは前転するようにして、派手に転んだ。


「お前は・・・・・・」


アリスがすっ転んでいく始終を見て、角から出てきたその男はそう呟いた。

アリスはその声になにやら聞き覚えがあると感じつつも、振り返ってぶつかりかけたことに対する謝罪をしようとする。


だが――――――


「――――――」


アリスは二の句を継ぐことができなかった。

喉は開くが、言葉が降りてこない。浮かぶ言語が湧いてこない。

頭の中が真っ白になる、というのはまさにこのことだろう。


「あの男と同じ色のやつか」


そこには―――ゾーアがいた。

ゾーアは帽子のつばをつまみ、ぶつかりかけたことによってずれたそれを正した。


「あの男を探しているんだろう?」

「――――――」

「なんとか言えよ・・・。ああ、そう怯えなくてもいい。今は抑制薬を投与している」


ゾーアはなんの反応リアクションも返さないアリスに対し、呆れたように息をつく。


「まあいいか――――――。それよりも、ちょっとした裏話をしようか」


ゾーアは角の壁に縋る。

対してアリスは己の感情の移行を開始させていた。先ほどまでは驚愕という鎖に縛られていたが、今は警戒と疑念に強制的に移行シフトさせた。

ゾーアという個体の言動に、最大限の注意を払う。その度合いの深さは傍目から見ても分かるほどであるが、しかしゾーアはそれを気にも留めない。


「結論から言うと、共犯者がいるという話は嘘だ」

「――――――!」


しかしアリスが構えた警戒は、ゾーアの言葉によって一旦崩れた。

脳が理解不能の兆しを見せている。ゾーアの口から発せられた情報をどう解釈したら良いのか、忘れてしまった。


「あの混血が脱走したのは本当だ。だが、おそらく協力者はいない」

「じゃ、―――じゃあなんなのよ! 兄さんはありもしない罪で連れて行かれたっていうの!?」

「ああそうだ。俺たちにとって不都合なのは、混血の脱走が相次ぐことだ。そうなれば単純に手間がかかるし、面倒にもなる。だからああやって、恐怖を植え付けるための生贄が必要だった」


アリスはぎり、と歯噛みをする。

それは―――なんて、納得のできない言い分なのだろうか。ここまで純粋な怒りを持つのはアリス自身初めてのことだった。

怒りのあとに残るのは、いつも濁った後味のみだ。

だが―――ことこれに関しては後味なんて残る気がしない。

結局、アダンはよその都合で殺された。そこから抱く心は殺意すらも通り越している。


「だがあいつは気づいていたな。これが芝居だってことに。だからあいつはすぐに連れて行けと言った。ただまあ――――――」


ゾーアはにやりと笑い、アリスを見る。

それに対し、アリスは何が面白いのか、と睨み返す。


「お嬢ちゃん、さっきからあいつのことを殺された、とか、死んだ、とかって表現しないんだな。全くこんな状況でも希望を捨ててないのは、なんていうか―――バカ丸出しだな」


アリスはぐっとこらえた。怒りの沸点はとうに超えているが、それでもアリスは耐えた。ここでこの蒼種に歯向かったとしても、なんの意味もないのだから。


「どうしてあいつがお前をかばったのかは知らんが、ここはあいつの自己犠牲の精神に免じてお前だけは殺さないでおこう。―――じゃあな」


ゾーアはそのまま背を向け、立ち去ろうとする。が――――――


「ああ―――言い忘れてた。あいつは今、焼却炉にいるぜ」


アリスはそれを聞き、ばねのように地を蹴り、焼却炉のほうへと全速力で向かった。


焼却炉に着く。

そこは妙に鼻につく、肉の焼ける匂いが漂っていた。


アリスは焼却炉に近づく。

熱をほんのりと感じる。

それの中はまだ温かいのだろうか。


アリスは、焼却炉の扉の取手に手を伸ばした。手は――――――震えていない。

だが、胸の鼓動がやけに五月蝿い。まるで心臓という臓器が、鼓膜の近くにあるようだ。


取手をつかんだ。

こちら側に引き寄せ、開けた。


そこには―――黒い何かがあった。

臭い臭い、焦げの匂い。

腐った腐った、肉の醜い香ばしさ。


それが人間だったということはすぐに分かる。四肢があるからだ。

しかしそれが誰であるかなんて特定しようもない。四肢があること以外の特徴が全て焼け落ちているからだ。


状況的に考えれば、それがアダンであるとわかる。しかし、アリスはそんなものに頼るより早く、確信した。


“これは、アダンだ。”


なにを思ったのか―――、アリスはそれの腕らしき部分を掴んだ。


「――――――ッ!」


しかし、掴んだそれはまだ高熱状態である。

アリスはそのあまりの熱さから、反射的に手を引いた―――。それは防衛本能、本能の悲鳴による行動であった。


だが―――アリスはそれを無視し、アダンだったものの腕をまた掴み、こちら側に引き寄せる。

手のひらの皮が溶ける。熱が肉にまで至る。そんな痛みは当然伴う。

だが、それよりももっとアダンは痛かったはずだ、苦しかったはずだ。


アリスの瞳から、涙が溢れた。

アダンが生きたままに灼かれる光景。それが容易に想像できた。


アリスは生前より軽くなってしまったアダンの全身を焼却炉から引き摺り出した。

出てきたアダンの顔は―――もうない。眼窩と鼻、それらの高低差しかわからない。


アリスは―――アダンの黒くなった手を優しく包んだ。

願いはたった一つ。


“家族と一緒に過ごしたいです。”


瞬間―――、一人の少女と一つの焼死体を囲むように、紅い幕が降ろされた。

その幕は、無限にも思えるようにねじれ、重なり、連なっている。


ここに―――奇跡は完了した。

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