第35話 嘘偽りの始まり

目覚めると、そこはいつもの寝床であった。硬く、冷たい石床。骨身にしみる冷たさは心をもかじかませる。だがそこに慣れたアダンは、十分に眠ることが出来ていた。そこはアダンにとって唯一と言っていい、安息の場所。


アダンは体を起こし、床の一点を見つめる。しかしその焦点はどこか定かではない。


アダンは、“いつの間にここに戻ってきたのだろう?”、と思った。

昨日を振り返る。しかし思い出そうとすると頭痛がし出す。アダンは昨日の記憶を手繰り寄せることが出来ずにいた。


そこでふと―――アダンは隣に人の気配があることに気づいた。ここは普段、アダンしかいない。アダンはこの収容所では居場所がないため、誰も寄り付かない場所を拠点として選んでいる。だからここに人がいることは滅多になく、もしいるとしてもそれはアダンに対して悪事を働こうとする輩だと相場が決まっている。


アダンはその気配の主のほうをゆるゆると見た。そこには―――


「おはよう。あんた、こんなとこで寝てて風邪とか引かないの?」


そこにはアダンと同じ髪色のアリスが居た。


「なんだ、アリスか・・・」


アダンは安堵し、気が緩むのを感じた。しかしそこに疑問があった。


“なぜ俺はこの少女に安心感を覚えたのだろうか?”、と。


アダンはアリスととともに生きてみようと思った。しかしそうなった経緯がわからなかった。いや―――覚えていなかった。

昨日、何かアダンにとって、そしてその人生において、大事な岐路に立っていた記憶があるのだが、それがどうしても思い出せなかった。それもこの頭痛によって遮られてしまっている。


「なあ、アリス。昨日、何か・・・無かったか? すごく大事なことで、忘れられないようなことがあった気がするん・・・・・・だが・・・」


アダンの声は徐々にしりすぼみになっていく。そのおぼろげな記憶は自分でも自信をなくすほどに、曖昧模糊としていたからだった。

まるで昨日の自分と切り離されてしまったような感覚。人生という連続する毎日において、昨日のことだけ都合よく切除されたような、そんな空虚感。


「さあ・・・・・・何もなかったわよ。私たちはいつも通り、一緒に過ごしていたわ」


そのとき、アリスの鼻先からなんの前触れもなく、赤の雫が垂れた。

それは鼻血であった。膠状としたものとは違い、さらさらとした血液だったから真水のようにぽたりと、音を立てて落下した。


「おい、大丈夫か?」


アダンは自分の衣服を少し破って、それをアリスに渡した。これで拭き取れ、という意の行動であった。


「うん、大丈夫・・・・・・・・・」


そう言ったあと、アリスは、“ちょっと力使いすぎたかな・・・”、と小声で漏らした。が、アダンの耳にそれが届くことはなかった。


アダンはアリスと収容所を歩き回った。あの場所でずっと座っているよりもこうして体を動かすほうが気が紛れるからであった。

と、いっても―――収容所は狭い。色々と歩き回ったとしても、目新しいものはなく、退屈なだけである。


アダンとアリスの二人。その組み合わせ。やはりそれは周りの目には奇異に映ったのか、先ほどからアダンはその視線を背に受けていた。


アダンはふと立ち止まる。


「どうしたの?」

「い、いや・・・あいつらっていつもああだったか?」


アダンが指す指の先には二人の男がいた。

その二人はいつもアダンに手酷い暴力を与えていた者たち。だが、アダンは“何か”が不足していると感じた。


「たしか、もう一人・・・居なかったか?」

「――――――」

「アリス?」


アリスはアダンの質問に答えない。ただ目を細めて、その二人組みをじっと見ている。


「さあ、私は最近ここに来たばっかりだから詳しくは知らないけど、最初から二人だけだったわ」


その返答に、アダンはただ、そうか、と頷くことしか無かった。

“どうやら今日は少し変なようなだ”、とアダンは自分に言い聞かせ、出来るだけ何も考えないようにした。



それから幾月が経過した。アダンとアリスはいつも二人で行動するようになった。それからというものの、アダンは誰かから絡まれるということが激減した。間違いなく、アリスのおかげだろう。


そしてこの共同生活により、アダンはアリスという人格を身をもって知った。


アダンが気づいたアリスの徳目はおおよそ以下のようであった。

他人への奉仕。

慈愛の心。

不屈の勇気。


アダンは特に、自分とアリスの決定的な違いはなんだろうと考えた。しかしその答えはすぐに浮かんだ。

それは勇気。

アダンは勇気を持ち合わせていなかった。


―――立ち向かう勇気。

―――挫けない勇気。

―――そして、変える勇気。


アリスはアダンには持ち得ないこれらすべてを持ち合わせていた。

人と人とはどこか違う。そう考えればよかったのだが、アダンはそうではなかった。


“なぜ俺とアリスにはこんなに差があるんだろう?”、とアダンは卑屈になっていた。


同じ髪色。同じ境遇。

しかし、強いアリスと、弱いアダンに分かたれてしまった。


―――それはなぜか?

アダンは自問自答を繰り返した。何度も何度も。床に就き、眠りに入るまでの間もずっと、ずっと。無意識にそればかりを考えていた。


その末にたどり着いた結論は、こうであった。


“俺が弱いのは、きっとアリスのように恵まれた血を持っていないからだ。”


その答えを以て、アダンは自らの未来を閉ざした。恵まれず、これ以上成長する見込みのない自分に対して、諦めた。

諦めた―――つもりであった。だがアダンはどこかまだ、踏ん切りがついていなかった。

もしかしたら自分はまだ価値ある人間であるのではないか、とそんな淡い期待を捨て切れずにいた。


だからアダンは模索する。

―――何か他に方法はないのか?

―――アリスのようになるにはどうすればいい?

そうして苦し紛れにたどり着いた結論は、最悪な形で顔をのぞかせた。


「俺たち、実は血の繋がった兄妹らしい」


真っ赤な嘘。本当に、異様なほど、明らかな大嘘。


「この髪色もそうだが、さっき監視員の会話を偶然聞いた。“あいつら兄妹”、って」


下らない嘘。

確かに髪色は同じだが、監視員はそんな会話などしていない。アダンは偽りの証拠をでっち上げた。

わかりやすいほどの嘘。

しかし――――――


「・・・―――本当、?」


アリスは目を見開く。そして―――その嘘を信じた。否、信じたいと願った。


アリスは孤独であった。この髪色のせいで誰とも相容れず生きてきた。だから、かつえていた。人に、愛情に。


アリスは、ただ誰かと一緒に居たいだけだった。だから―――アダンの存在が目に止まった。

同じ色のアダンなら、自分の気持ちを理解してくれると、アリスはそう思った。


あのとき―――アリスはアダンとともに生きることを提案した。

しかし、その本質は結局、自分本位。アダンを救うことよりも自分の孤独を回避したいがためであった。


この幾月で、アリスの渇いた心は満たされた。しかし、そこに更に家族という永遠のちぎりなる潤いがしたたり落ちようとしている。

アリスはそれを、欲した。その心はもうとっくに潤っているというのに、なおも求め続けた。


アリスは疑わなかった、アダンの言葉を。

目的達成のための、意図的な視野狭窄。


アダンは、アリスのようになりたいがために血縁を騙った。

アリスは、他人に深いつながりを求めた。


互いは互いを利用し合う。

二人は共依存に陥いるのだった。

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