第34話 死の地平線

べちゃり、とアリスは顔中に粘性のある液体を浴びた。

それは何とも言えない匂いを放つ。嗅げば嗅ぐほど具合が悪くなる。そんな得体の知れない匂い。所謂―――脳汁。


ぐぶり、とは先ほどとはまた違った音が鳴った。次に落ちてきたのは液体じゃない。固体だ。ぶよぶよとした触覚であるそれは―――所謂、脳味噌というやつだ。正確に言えばその破片。それがアリスの顔の上に乗った。

液体も固体も、全部目の前にいる男の頭からえぐり出たモノだということに、アリスは遅れて気づいた。


「ひ、、、―――――――――」


生理的嫌悪。それは感じて良いものではなかった。

アリスはその触感のモノが自分の頭の中にもあることを否応なく想像させられた。嗚咽が止まらない。だがしかし、仰向けに組み敷かれたこの状態では重力のせいでうまく吐き出せなかった。


アリスの脳内では警鐘が鳴りまない。

―――これ以上は限界だ、と限界を超えてもなお、ずっと警告を続ける。


無限の限界。永遠に続くかと思われたそれはしかし、唐突に終わりを告げた。


アリスの上に乗っていた男は、アリスの真横に力なく倒れた。

それのおかげでアリスは流れ落ちる液体を浴びずに済むようになった。


アリスはなんとか吐き気を抑え込む。


「なんだ・・・ちゃんと自分でできるじゃない」


アリスの目の前に立つアダンはそう言われた。アダンの右手には血だらけの石が握られていた。

その石はさきほどアリスが撥ね退けた石。アダンはそれを使い、アリスを組み伏せた男の頭蓋を殴り、えぐり、散らかした。


「どうして―――どうして人を殺したっていうのに、そう・・・平然としていられるの?」


アリスは肩で息をしながら立ち上がり、そう質問する。


「―――――――――」


アダンは今もみずみずしいほどのしゅを輝かせた石を見つめ、考えるように沈黙した。その顔は、つい先ほど人を殺した後とは思えない落ち着きようであった。


「多分、俺が死をよく知っているから・・・だと思う」

「死を・・・知っている?」


アリスの頭上に疑問符が浮かぶ。


「昔から俺はこの虚弱体質のせいで何度も死に瀕したことがある。生と死を何度も行き来した。だから、死ぬっていうことになんとなくの予想がつく。そして死はだれにでも訪れる。死は共通感覚だ。だから自分の死を知るということは他人の―――いや世界の死を知るのと同義なんだ」


アダンは殺した男のもとに踏み寄る。


「こいつの死は俺の死であり、お前アリスの死であり、人類の死でもある。みんなおんなじなんだ。だから殺すことに、死なせることに躊躇いはなかった」


死は特別ではない。死は平等で、区別がなく、差別もない。

皆、すべからく、死に帰する。

全く同じ、一つの終着点に行き着く。


「―――・・・そうだ、だから死は怖くないんだ」


アダンはそのとき、はっとした。

皆が還る場所。

死がそこだというのならば、それこそが―――本当に平等な世界なのではないだろうか? 、とアダンは改めて思い至った。


ふと、アダンの中でなにかの糸が切れた。張っていた弦がぷつりと切れた、そんな感じ。


「そうだ―――そうなんだよ、俺は・・・ずっと誰かに平等に接してほしかったんだ・・・・・・」

「・・・?」


アリスはアダンの様子がおかしいことに気づいた。アダンがこれからなにか仕出しでかす、そんな不吉な予感を、アリスは抱いた。


「苦痛を言い訳にしてた・・・。そうだ、結局勇気がなかったんだ。だからいつまでも生き永らえてる。結局苦痛さえ乗り越えれば、俺はみんなと一緒にいられるんだ」


アダンは震える、自らの手を見つめた。


「アリス・・・だったか? ありがとう、おかげでやるべきことがわかった」


アダンはそう言って、この場から去ろうとする。


「待って!!!」


だが、アリスはそれを許さなかった。


「あんた・・・・・・死ぬの?」


それは漠然とした予感。アダンの去り際のその背からはなんとなくそんなことを思わせた。


「死ぬ? まあ・・・そうだな、どちらかというと還る、っていうのが正しい。俺たちは死という、絶対的な地平線に還るだけだからな」

「いいから待ちなさい!」


アリスはアダンの進路を阻み、それ以上の歩みを止めさせた。


「あんた・・・今、平等に接してほしいだけって言ってたわよね? ―――だったらその願い、私が叶えてあげる」


それは突然の提案であった。アダンは理解に時間を要した。その提案自体に、ではなく、それを提案するアリス自身にだ。


“なぜこの少女がたかだか俺なんかのためにそんなことを言うんだ?”、とアダンは思った。


「いい? あんたの髪色って私のとすごく似てる。いや、全く同じよ。あんたは今までその髪色のせいで普通に接してもらったことがないのかもしれないけど、私はそうじゃない。あなたを理解できる。だって同じ髪色だもの。私たちは平等よ。お互いを理解できる。だから、だから―――」


提案、ではなかった。これは――――――


「死なないで」


懇願だ。

アダンは気づいた。この少女の本質を。

アリスは強い。

それは初日の直感でも、これまでの噂と実際に会った所感からも分かる。

だが―――アリスはその強さを自分だけでなく、他人のためにも行使する。


思いやりの強さ、とでも言うのだろうか。それは時に自分の身を顧みない。

アダンはあのとき―――たしかに見た。

アリスが男に立ち向かうとき、手足がかすかに震えていたことを。


体と心はつながっている。

アリスだって恐怖していたのだ。いくら力が強いとはいえ、自分よりも体格の大きな男に相対するのは怖かった。

それでも、アリスは逃げなかった。震える体を騙し、己を鼓舞した。そして挫けず困難に立ち向かった。


“そうか、こいつはやっぱり強いんだ。”


体の強さではない、心の強さだ。それは、アダンには無いものだった。


人という種は弱く、儚い。だが群を作り、互いの弱い部分を補い合うことによって、現在のように霊長の王として地球に君臨することができた。

だから人間という種は、自らにないものを持つ者に惹かれる。これは人間の機能であり、生存本能として刻まれたものだ。


「わかった。もう少しだけ・・・生きてみるよ」


だから、アダンは自死の選択をやめた。

本能に従い、アリスとともに生きてみようと、そう思った。

そして、アダンはアリスのことを知りたかった。自分とは何が違うのか、それをこれからの日々で理解していこうと思った。


「少しだけじゃないわ、ずっと生きなさい」


アリスはこれからよろしく、と示すように、アダンの腹を軽く小突き、そう言った。


「あんた、名前は?」

「アダンだ」

「私の名前は―――」

「アリス、だろ? お前のことは噂になってる」


アダンはアリスの言葉を遮り、そう言う。


「そうなの? まあいいわ、よろしくねアダン」


アリスは手を差し伸べ、握手を促した。

アダンはその手を握る。


「でも、その前に――――――」


そのとき―――アダンはアリスによってぐっと引き寄せられ、視界全部がアリスの顔になった。鼻先が触れそうなほどの、紙一重の距離。

いきなりの行為であったが、アダンは、“整った顔だな”、と我にもなく思った。


「都合の悪い記憶は消させてもらうわ」


そんなアダンに構わず、アリスはアダンの額に触れるのだった。

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