第29話 逃亡

アダンは落ちてくる老人の死骸―――その上半身に目を見やる。

そして―――


破砕。それは一瞬の出来事。

浮かぶ老人の上半身の頭蓋が弾け、消えた。

そしてそれはいつの間にか石壁にめり込んでいる。

また、どういうわけか、転がる首は―――、一つ余分に多い。


ばしゃりと、またも血が吹き出る。

アダンは老人の頭を蹴り、アリスを人質にとる兵士の頭を狙った。

なんと精密な芸当だろうか。一歩間違えればそれはアリスさえも巻き込んでいた。しかし今のアダンは絶対的な自信を持っている。ここでは誰よりも正確な死を与える能力があると、そう自負している。


人の頭でまた頭を弾く。

まるで人体を介した遊戯ピンボール。それを目の当たりにした雑兵どもの士気はなおも降下中だ。


さあ、―――隙が生まれた。

アダンは身をかがめる。まずは最寄りのアエを抱きかかえた。そして、飛来する礫の如く―――アリスのそばまで到達する。


アダンは更にアリスを小脇に抱え、両脇にアエとアリスを抱きかかえた形になる。

そしてそのまま置物のようになった兵士たちの囲いを抜けた。


このまま背を向けて、全力で逃走するのも手だろう。しかし、兵の中には弓を携えている者も見受けられる。がら空きの背中を狙われるのは流石にまずい。

アダンは目の前の兵から目を逸らさず、ジリジリと後退する。


そのとき、腕の中にいたアリスが無理やりアダンから離れ、こちらに体当たりをしてきた。

軽い衝撃。だがしかし、不意を突いたそれは、アダンをよろめかせるのに十分だった。

“なにをしてるんだ?”、とアダンは混乱した顔でアリスを見た。そのときのアリスの表情は、声も出せないくせ、口を大きく開けていた。


“危ない。”

唇の動きから、そんな言葉を聞き取った。


・・・・・・なんて言ったら良いのか。


理解が追いつかなかった。

だってその光景はあってはならないものだから。

でも―――澄み切った視界はそれを容赦なく認識させてしまう。


―――――――――アリスの胸に無機質な異物が生えている。

それは肉を断り、なおも深々と刺さっている。

ひゅとっ、と小さな音を立てた。それは射抜く音か。それとも肺に充満した空気が勢いよく吹き出た音なのか。


何が起きているのか―――

よくわからない。よくわからない。よく輪からない。よくわかラない。よくわからない。よくわ化らない。ヨクワカならない。ヨくわからない。よくわからない。よくワカラナイ。よくわからな意。ヨクワカならない。よくワカラナイ。よくわからない。よくわ可らない。よくわ禍らない。よくわからない。よくワカラナイ。ヨクワカならない。

よくわからないから―――よくわからないから―――よくわからないから―――

よくはわからないから―――? どうすればいいんだろう?


これは―――誰のせいだ? 

アリスがこうして―――心臓を矢で射抜かれたのは、誰のせいだ?


弓を引いたのは、出口門の影に隠れていた兵士。彼らは門の外側の警備をしていた。だから門の内側で行われる検査からは少し距離がある。

奴らは騒動を聞きつけて、遠くからあの惨状を目撃していた。


奴らは遠くから弓を引き、アダンを射殺すそのときをずっと窺っていたのだ。そしてそれに気づいたアリスは、迫りくる矢からアダンを守った。―――身を挺して。


アリスがうつ伏せに倒れかかる。アリスはうずくまり、なんとか持ちこたえようとするが――――――


「―――、っ―――――――――ッ!・・・」


体全体から生気が失われていくのが傍目からでも分かる。血を循環させる心臓おおもとが破壊されたのだ。もう―――時間がない。

動かぬ四肢。

冷え込む身体。

関節の部分から肉が抜け落ち、剥がれ落ちそうな虚脱感。


死の邂逅は一寸先。

一寸先は闇。


アリスはもう―――痛みを感じなかった。

ただ―――その瞳にはアダンとアエの姿を映す。

死の間際に二人を見て、アリスはなんとか再起を図る。だが、力が湧いてこない。そのまま崩れる身体。


そのとき、胸に刺さっている矢が地を着き、また深く刺さった。


“ィタイ―――!!!”


声を上げたいのに、上げたいのに。声が上がらない。喉が潰れているから声帯が震えない。

だが―――痛みを感じなくなった身体に更に衝撃が走ったことによって、痛覚が一瞬蘇った。

アリスは意識を回復させる。


腕を伸ばすアリス。その先にはアダンとアエがいた。


「ア――――――ァリス―――!」


今にも泣き出しそうな、アダンの顔。アリスはそれを見て微笑んだ。


伸ばしたアリスの指先からか細く、折り重なる線条がバチリと音を鳴らした。

それは渦となり、螺旋となり、やがて人一人を覆う大きな球となる。


「何だ―――これは・・・・・・」


雑兵たちは混乱するように、声を上げる。


ごうごうと、風が鳴り止まない。音の発生源はその球から。

まるでそれは自分が世界の中心であると主張するかのように、周りの空気を吸い込みつづけ、大気に著しい変化をもたらす。

球は高速で自転し、徐々に径が大きくなっている。地球という大地に今―――新たな惑星が誕生する。そんな予感さえ覚えるほどの壮大さ。それほどの神々しさを放っている。


やがてそれはアダンとアエの両名を包み込む。中は空洞だった。

質量を感じさせる威圧感からは程遠く、実際それは外皮に包まれた見せかけのもの。だがそれは中で行うべく、ある工程のための“余白”だ。


アダンとアエを完全に包み込んだ球は、そのとき―――中からまばゆいばかりの光彩を放った。

瞼さえも焼き尽くさんとする強い光。そして耳鳴りがするほどの轟音が辺り一帯を包む。


アダンはゆっくりと瞼を開いた。

まだ視界が回復し切っていないのだろうか、ぼんやりとした像しか捉えられない。


しかし視界が曖昧だとしても、その違和感は確かに感じ取れた。

そう、視界が高いのだ。地に二足を着けていたときよりもずっと。

それに足にかかる負担重力を一切感じない。

アダンは疑問に思い、自分の足元をふと見た。


そこには―――馬が一頭、大地を踏みしめ、悠然と佇む。アダンはいつの間にか馬にまたがっていた。それはアエも同様で、アダンとは違うもう一頭の馬に乗っている。


この場に突然、馬が二頭顕現した。その馬はどう見ても普通とは風貌が異なる。たてがみと尾っぽは焔のように燃え盛り、身体は艶やかに光を反射し、黄金の輝きを放っている。

やがて、二人と二頭を包み込んでいた赤い球は霧散した。それを合図に、黄金の馬は身を仰け反らせ、嘶いた―――。


そして出口の方へと身体を反転させ、颯爽と駆ける。

しかし、それは―――


「お、おい! 待て、アリスがまだ――――――あそこに!」


アダンは振り返る。アリスはまだ門のところでうずくまっている。今もアリスの身体から血の絨毯がどくどくと広がっている。


倒れているアリスとの距離は、すでに大きく開いている。

アダンは馬から身を乗り出す。“助けないと”、と無意識に体が動く。


そんなとき―――アダンはアリスと目があった。

アダンはピタリと動きを止める。

アリスを救出するのならば、そんな悠長なことをしている暇はない。だが、そうしないといけない、と思わせるような強い意思を、その目から感じたのだ。


アリスはなにか言っている。いや―――正確には唇をわずかに動かしている。アダンは必死にそれを読み取った。


それは―――――――――

“生きて”、と。


愛する人へ、生存を訴えかける、声にもならない声だった。

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