第28話 覚醒

考えることは多かった。

後悔ばかりの思考だ。

後悔は過去の追随。

それは未来を見据えていない。

来訪する今も―――未来も無視した後ろめたい行為。


それは生きることの放棄か?

             それは一時の不安を癒やす麻薬か?

それは地獄への延命か?


いいや、違う。断じて違う。断固として反する。

これは―――未来への糧だ。


人間は感情の起こりそのものだ。

他の霊長類、ひいては万物の生物との違い。それは感情の豊富さバラエティだ。

古来より、人間の武器は――――――感情であった。


突発的な負の感情の増幅は力を与えてくれる。


増幅させろ。

その怒りは―――他人を、いともたやすく、抵抗なく―――――――――駆逐する。


“今までどこか―――感情を閉ざしていたように思う。

そうだ―――ずっと閉塞感があったんだ。なにかに縛り付けられているようだった。それは産まれてからずっと。”


――――――――――――しかし、その枷はもう解かれた。




それは一瞬。

稲妻が走るような衝撃が周囲を駆け巡った。


その衝撃の源からは、音にもならない音がした気がする。


一同、何事かと思い“それ”を見る。


そこには―――鉄の無残な姿が、人の痛ましい姿があった。


全く、なんて―――非現実的な風景。

貫かれている。

人の胸が人の腕によって。

もしその腕を引き抜いたのなら、それはそれはきれいな風穴が顔を覗かせるだろう。


それはもしもの話――――――ではあったが、本当にそのようになるとは。

アダンはその腕を素早く引き抜き、絵の具を撒き散らすかのように、その鮮血を周りに飛散させた。

鎧を着込んでいた兵士の胸にはただポッカリと、まるではじめからそうあるほうがお似合いだとばかりの―――真円がそこにある。


人に満月が刻まれた。

それは―――もうただのカカシ。

支えを失えば斃れ落ちる。わかりやすい原理だ。

さあ、それは人からカカシに成り下がってしまった。全くの名折れ。


どしゃり、と音を立てて地に伏せる。今もなお面白く、出鱈目な量の液体が溢れ、流れ出ている。


皆、それを見ていることしか出来なかった。

体が動かない。思考もそう。

時間が凍結されているのか。それとも自分たちの体が凍りついてしまっているからそう感じるのか。そんな錯覚の最中さなかに身をうずめることしか出来ない。

理解不可能の海。皆、一様に溺れていた。


人体に穴をあける所業。こんな非日常的な光景を事実として咀嚼するのにはもう少し時間を要するだろう。

彼らには固定化された観念がある。

突然、そこに異分子が現れたとしてもそれを正しく判断しようとするスイッチはもうとっくに鈍ってしまって、まともな機能を果たしてくれない。


一方、目の前の怪物はそんな周りの様子にはお構いなしだ。

―――この一瞬。

―――その数秒。

世界の中心は、主人公は、間違いなくこの怪物だ。


怪物アダンは地を蹴破る。遅れて音がした。誰もその姿を捉えることなど出来なかった。ただ黒い影が、細い閃光残像を残して横切ったくらいしか知覚できなかった。

それはいつの間にか老人の懐に入り込む。老人の視覚はとっくに閉じられ、その役目を終えている。


しかし――――――――――――――――――――――――――――――――――

―――このときだけはなぜか――――――――――――――――――――――――

―――――――――――――なぜだか――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――見えたような気がした。


怪物が舌なめずりをし、喜々としてこちらを葬ろうとする姿が。

―――もしかしたら、そんな形象かたちは妄想かもしれない。

だがはっきりと、知覚できることがある。


これは―――死んだ、と。

はっきりとした死。それはまるで物質化して現れた神秘のよう。

恐怖はない。むしろ安らぎすら感じてしまう。


だって―――今まで死は不定形だったから。

見えないものほど怖い。ぼんやりとした未来こそ、何よりの恐怖。

でも―――こうして来てくれた。それも―――馴染みの深い、人の姿で。


怪物じゃない。

これは―――死神だ。


誰だって、人間として生まれ落ちたというのなら、死を継承している。そしてそれを呼び覚ますのが、死神だ。


死神アダンは腕を振り上げている。大きく、大きく、振りかぶっている。

一挙手一投足に死がごぼれ出す。


老人はもうとっくに目を閉じていた。潰された両目はもう開くことはできず、閉じている状態こそが普通であるのに―――

なぜか―――なぜかこのときだけ――――――

あの感覚が。瞼を閉じる感覚を思い出した。

諦観。諦め。

その末に、明らかに見た―――深淵。

本当に、何も見えなかった。



即死だった。

その上半身は、空中で何回転したのだろうか。

肉塊となったモノは、高く、なおも高く上昇している。

血が、胃液が、肉の汁が、水洗シャワーのように降りかかる。

ところどころにどろりとした血の塊が床にへばりつく。それは染みとなって、見るものに異物感を与える。


部屋は、それはもう血の色一色であった。鮮やかな赤を通り過ぎて、茶褐色に染まる。


なにか―――別の世界に迷い込んでしまったのではないかと錯覚するほどの赤。

色彩豊かな世界はどこ吹く風。

ここでは吐き気がこみ上げるほどのくれないが支配している。


この地獄を作り出した―――その死神アダンはギロリと、辺りを一瞥し、目を細めた。その様相は次の標的を定めるようだ。

まるで――――――獣。


その場の全員、思い出した。狩猟採集時代から培われた本能を。獣に怯えていた日々を。


――――――そう、古来より人間という種は貧弱であった。

そしてそれからというものの、人間は身体的な進化を何一つ遂げていない。

集団でこそ人間は強くなれるが、単身での弱さはあいも変わらずだ。


今、歴史は再現されている。

この空間では死神という獣に生殺を握られている。


ときに―――怪物。

ときに―――死神。

ときに―――獣。


あまりにも暴力的だ。

さきほどまでニンゲンだと思っていたモノが、ここまで多種多様な恐怖を一方的に与えてくる。


やがて――――――“次はお前だ”、と。死神アダンは一点を見つめる。

その先にはさきほど、アダンたちをハッタリで揺さぶろうとした男が。


「―――、ひ――――――」


声にもならない声を上げる。息ができない。

男は目の前の状況をやっと理解した。

その明確な死が鎌首をもたげてやってくる姿を、正しく認識することに成功した。


だが――――――今更認識したところで、どうなるというのだろうか?

もう死神アダンは行動を終えている。


そこに苦痛はなかった。そこに正しい認識をなかった。

そこに―――そこに―――そこに―――そこに―――そこに―――そこに―――そこに―――そこに―――そこに―――そこに―――そこに―――そこに――――――首のない人間がいた。


死神は甘き死へと誘う。

数多多数の、正確無慈悲な手段を用いて、必ず殺す。


しかし、死神はどうやって殺したのか。

それは呆れてしまうほど、全く児戯のような発想によるものだった。


舞い上がる老人の上半身の反対、その下半身は地に着き、まるで心金でも入っているかのように直立をしていた。

死神はこれは使えるとでも思ったのか、それの腰の部分を持ち、乱暴に振り回した。


振り回された老人の足はきれいな半円の軌道を描く。

それはまっすぐ捕らえていた――――――男の首を。

先ほどの老人の上半身と同様、その首は独楽こまのように楽しく回り続けていた。


ここまでで――――――たった七秒しか経過していない。しかしソレにとっては十分な時間だ。それはこうして三人の殺害を意気揚々とこなす姿を持って証明されたのだから、反論はないだろう。


その所業はニンゲンの手によるものとは思えない。


一体何なんだ? という原始的な疑問はもうとっくに過ぎた。

アレは脅威だ。生存を脅かす圧倒的脅威。


―――生きたいのであれば、

―――原理的欲求に従うのであれば、

やるべき行動は一つだろう。


紅華の兵士は、ソレに先手を打たれる前に布陣を固める。

武器を構え、ソレを囲う。

獣には集団で挑む。当たり前のことだろう。

そして人間には他の生物は違い、知恵がある。

まあこの場合は少々汚い方向に使われるのであるが・・・。


紅華の兵士は近くにいたアリスを抱き寄せ、首筋に凶器を突きつける。


――――――俯瞰的にみれば、人質を有している兵士の方に分があるとすぐに分かる。しかし、それはあくまで俯瞰の視点に立てるならの話。実際その場に立てば、感情が邪魔をして、冷静な分析なんて出来ない。

―――ほら、今なお怯んでいるのは兵士の方だ。


アリスを人質にとっている兵士は今にも泣き叫びたそうな顔をしている。

“頼むからもう止まってくれ”、と懇願するかのようだ。これだけでこの化け物が止まらないと信じ込んでいる。そう思ってしまうのも仕方ない。それだけの衝撃トラウマをこの数秒で、完膚なきまで与えたのだから。


アダンは考えた。この状況をどう乗り切るか。

アリスとアエの救出は絶対だ。それは絶対条件。

それさえできれば他はもう――――――どうなっても良い。


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