第30話 燃える命

あれから―――幾時が経過しただろうか?

正確な時を数える正常な神経を今――――――アダンは有していない。


アダンのその姿。

それは完全な放心状態。もはや廃人と見える。

視線はまっすぐ向いている。だが、その先は虚空。瞳に灯る生気もどこか抜け落ちている。


黄金の馬はなおも疾駆する――――――。尾っぽに燃え盛る炎は尾鰭おひれを引き、幻想的な足跡を残す。


馬にまたがるアダンの肩は、駆ける振動につられ、力なく揺られている。


突然――――――馬が急停止した。

どれだけ悲嘆に暮れようとも無常に、慣性は普遍的に働く。

アダンはそのまま馬の背中から投げ出され、受け身も十分に取れず、地面に転げ落ちた。


目の前で火花が散る。アダンは唐突の衝撃にはっとした。


“・・・・・・痛い。”


刹那的な痛みと―――、

アダンの皮膚は地面に摩耗し、剥がれるようなジリジリとした痛みを感じていた。

慢性的な苦痛。


ようやく、アダンは現状を理解した。

今がどういう状況で、自分がなにをしたのか。そして“誰”を失ったのか。


アダンはよろめきながら起き上がる。そして――――――


「――――――ォッ―――、、、ッッッアアアッ、、、―――――――」


吐いた。

近くにある木に凭れ――――――、

惨めたらしく――――――、

もうどうしようもないくらいに――――――、全部吐き出した。

胃液を出し切ってもまだ、吐き気がおさまらない。次はつんとする血の味がした。


血を全て出しきらなければおさまらない。

この体にめぐる血液を。

すべて吐き出して、すべて排出して、すべて排気して、―――――――

きれいな状態に戻して――――――すべてやり直したい。


しかし―――そんな身勝手な願いは叶わない。時は巻いて戻ることはない。

時間という概念は常に一方通行だ。よもや往来することは不可能。

だが、過去を振り返ることは出来る。


そもそもこうなった原因は何か?

―――“老人がアダンたちを兵士に告発したからだ。”


なぜ老人は混血だと分かった?

―――“不要に接触してしまったからだ。”


なぜ接触した?

―――“アリスが老人に同情したからだ”


では、アリスが同情さえしなければこうはならなかった?

―――“そうだ。”


では、これはアリスの自業自得か?

―――“・・・・・・・・・・・・。”


つまり、これはアリスが起こした悲劇だ。

―――“黙れ!!!”


アダンはその残酷な思考を振り払う。

全ての原因をアリスに転嫁するのは外道にも程がある。


“悪いのは、俺だ。”


アダンの落ち度は二つある。

一つ目。

アダンは老人の様子を見に行くふりをし、頃合いを見て宿に帰り、アリスに老人が無事だったと嘘の報告をすれば良かった。

そうすれば接触することもなく、混血だと看破されることもなかった。


二つ目。

アダンは迷うべきではなかった。老人を殺すことを。大層なお題目を掲げている場合ではなかった。なにが“理不尽の体現者にはなりたくない”、だ。身に降りかかる火の粉を振り払わなければ、生き残ることは出来ないというのに。


“だから――――――全部俺が悪いんだ。”


アダンは自分にそう言い聞かせた。


目の前にいる馬に目を向ける。最初、これの色はまばゆいばかりの黄金であった。しかし、今は色あせ、くすんだ色をしている。


アダンはその馬を見て、ふと思い至った。

“アリスの無縫によって生み出された馬が顕在しているということはそのあるじであるアリスはまだ無事なのでは?”、と。


希望はまだ微かにだが残っている。それはアダンを突き動かした。


アダンが見つめる方角は先ほど逃走してきた貿易所のほう。そこにアリスがいる。

アダンは馬に乗ろうとする。


だが―――――――――、何かを忘れている気がする。


“そうだ、アエは?”


辺りを見るまでもない。さきほどからずっとアエは馬とともに、隣りにいた。しかし今まで気づかなかった。それだけ視野が狭くなっていた。


アエは前かがみになり、馬のたてがみを強く握りしめていた。その手は震え、どことなく何かを我慢しているかのように見えた。

しかしそれを気にしている暇はない。

アダンは馬を叩き、いざ出発せんとしたそのとき――――――


隣からどさりと、音がした。

アエが馬からずり落ちたのだ。

アダンは不審に思った。アエは先ほどから一言も発していない。それどころかこちらに目も合わせない。

その理由は今――――――わかった。


アエが着ている白衣に深紅の染みが広がっていた。染みの中心、脇腹には矢が刺さっている。

馬で逃走していたとき、弓を持った兵士に一矢いっし打ち込まれていたのだ。

幸い急所は外している。しかしこのままなんの手当もしなければ、失血死してしまうだろう。


アダンは迷った。だが―――――――――

馬から降りる。そしてアエを仰向きに直し、傷の状態を見る。

アエの息は荒い。

アダンは医者ではない。これがどれだけ深刻な傷なのか、見通しが立たない。

しかし傷に対する対処は知っている。アダンは思い出す。アエから治療を受けたときのことを。


“こういうときは止血するのがいいはずだ。”


アダンはアエの白衣を脱がし、それを破く。そしてそれを包帯のようにアエの胴体に巻き付け、最後にギュッと結んだ。

これでいいのだろうか、と疑問に思いながらもアダンはなんとか処置を続ける。


そうして、数時間。

空には西に傾いた太陽。もうすぐその姿も地平線に消えてしまう。

そして近くに佇立ちょりつする馬は、先ほどからどんどん黒ずんでいる。夜になれば闇と同化してしまうだろう。


時の経過は視覚的に襲いかかる。アリスを救う時間はこうして砂時計の落ちる砂の如く、目減りしてゆく。

特に馬の様子はわかりやすい目印だった。アリスの命の枯れ様は黒く濁っていく馬そのものだった。


アダンの額から発汗が止まない。このいいようもない焦り、不安、イブツカンは最近生まれたモノだった。

収容所にいた頃は、今現在だけを考えればよかった。だが、バベルの地から脱走し、一時の自由を獲得してからというものの、明日、明後日、そしてそのさきの未来が見えるようになった。


完結しない情報。

多すぎる分岐点。

少なすぎる希望。

人間のちっぽけな脳にそれは過重だった。

アダンは―――疲れていた。


あれから、アエの傷口から溢れる血は徐々に収まっていった。そして呼吸も落ち着いてきている。

アエの瞼がぴくりと動き、開かれた双眸がアダンを捉えた。


「―――おはよう」

「・・・・・・・・・・・・」


開口一番。アエは朝の挨拶を発した。しかし今は午後。あと数時間で夜になる。

アエは腹部を触り、アダンが応急処置を施してくれたことを察した。


「ありがとう、アダン。でももう大丈夫だよ。アリスを助けに行きたいんでしょ? 僕に構わず行っておいで。僕はほら―――ッ、、、」


アエは起き上がり、自分の健全さを主張しようとするが、その顔は痛みに歪んだ。


「だめだ。アエをちゃんとトゥデのところに連れて行く」


アダンはアエの後頭部を支え、ゆっくりと寝かせた。


「でも、それだとアリスは―――・・・」

「これはアリスの願いだ。あのとき、アリスは“生きて”、と言っていた。これは俺だけに込められた言葉じゃない。アエ、お前に対してもだ。俺だけなら、馬は二頭も必要ない。―――アリスはアエにも生きてほしいと願っている。俺たちはアリスに救われた。だったら、その生命を無駄に散らすわけにはいかないはずだ。そうだろ?」


だから―――アダンはアエが馬から崩れ落ちた時、貿易所に行くという選択をせず、アエを救うことにした。

もちろん、その選択にアダンは逡巡した。それは今もそうだ。

しかし、選んだのならやり遂げるしかない。


“アリスを救い出すのは、アエの安全を確保してからだ。”

アダンは苦渋の決断をした。


途端――――――

ぼうっと、炎が燃え盛るような音が聞こえた。


アダンとアエは音のするほうを向いた。

そこには雄叫びを上げ、その巨躯をのけぞらせる馬が一頭。

その馬の体の炎は豪炎へと変化する。そして、馬体に纏わり付き、食らい尽くし、砂と散らせた。


残るは蚊ほどの残滓。そしてそれも風に乗り、どこへと飛ばされてしまう。 


もう、アリスに残された時間がほんの僅かであることは明白である。

残る馬は一頭。

しかし、これも時間の問題。残った馬も先ほどの馬と同様、塵芥ちりあくたとなり、霧消するだろう。


アダンは焦る。だが、やれることと言ったら、ただ祈ること。奇跡を待つことしか出来ない。それがひ弱な人間という種の宿命―――いや限界というべきか。


アダンはこのとき、初めて神に祈った。神なんて今まで意識したこともなかった。だがなにかに縋らなければ、どうにかなってしまいそうだった。


「アエ、トゥデの家はどこだ?」


アダンはアエを残る馬に乗せ、そう言った。

その顔つきは気丈そうであるがその実、アダンの心はもう見るも無残な状態で、ぼろぼろのゴミクズのように萎んでいた。

しかし、決断した。

“アリスが救ったアエは必ず守り抜く”、と。


アダンはアエの案内のもと、馬を走らせた。どうやらトゥデの住処はもう近いらしい。この調子で行けば数十分で到着するそうだ。


鬱蒼とする森林を両断するように切り開かれた道を颯爽と駆ける。

その道は少しだけ舗装されていたため、馬を全力で走らせることが出来た。

やがて、両脇に続く木々が途絶えた。

開ける視界。


―――小高くなった丘の上。だいたい一キロ以上先に――――――


「あれか・・・・・・」


ぽつんと、家があった。なるほど、俗世に関わろうとしない人間にとっては絶好の場所だ。ここにはよほどのことがない限り、人が近づくことはないだろう。


そして―――そのよほどのこと、それだけの理由をもって、アダンとアエはここにいる。

アダンはそれに向かって馬を走らせる。


そのとき―――――――――二人は世界との、大地との接点を失った。


くうに浮かぶ。

しかしそれは長く続かない。人類普遍の法則は万物に否応なく適応される。やがて二人は重力に従い、規律正しく落下するだろう。 


アダンは何事かと思い、視線を下にする。


そこには灼け焦げる黒馬。それは砂のように崩れ、剥がれ、零れ――――――、

所々に穴を作り、その体はもはや原型を留めていない。

老醜をさらす馬。最盛の頃の黄金の輝きはどこ吹く風。


アダンは滞空する数瞬、アエを自分の胸に抱き寄せ、落下に備える。

まさに限り限りのわざであった。


車輪のように地面を転がる二人。

アダンはその衝撃で、アエを抱き寄せる腕を何度も離してしまいそうになるが、なんとかこらえる。

その回転は止む気配がない。


一方、残像が大きく伸びる、定かでないアダンの視界。

アダンはその中で、ある輪郭を視認した。


その輪郭は、岩。人の頭蓋ほどの岩。

アダンが転がる先にそれはある。

このまま転べば、ちょうどアダンの頭にぶつかるだろう。


そして―――――――――

予想通り、アダンはその岩に衝突した。


ゴッ、と。ありえないくらいの鈍い音が、頭中を駆け巡った。


焼き付くような鈍痛。脳漿をぶちまけるような錯覚。


しかしその衝撃が制動装置ブレーキとなったのか、回転はいつの間に止まっていた。

アダンは腕の中にいるアエを確認する。

アエは、無事だった。

ほっ、と安堵したのも束の間、アダンは急激に体温が下がるのを感じた。


血の気が引く、とはまさにこのことだろう。


アダンは体内から大事な“何か”が漏出しているのをはっきりと知覚できた。

それはもう言うまでもなく―――

生きる動力である、血。


アダンの頭部からはおびただしいほどの血が流れ、一筋の河を作っていた。

さきの衝撃は、それほど致命的だった。


滲むアダンのその視界。やがて朱が混じ入る。

意識は――――――とうに途絶えていた。


かように―――人の半身を泣き別れにする化け物であろうと、体を動かす糧さえ失えば、絶命する。


アダンのその様は、そんな仮説を立証するかのようであった。

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