第26話 雨

あくる日。

今日は、朝早くに馬を確保して貿易所を出立する予定であったが―――


「この雨だと望み薄かな」


アエはそう呟いた。

外から聞こえてくる、叩きつけるような雨音。この雨量だと馬での移動は危険だろう。

もしも今日一日、ずっとこの様子であればここでもう一泊する必要があるかも知れない。


アダンは床に座り、壁に背を預ける。


しかし―――もう一泊するとなると、とんでもない時間の損亡になるだろう。ここではアリスの賞金首に熱心な、欲望多き者が多い。

単純に滞在時間が増えれば増えるほど、危険度は増すばかりだ。


けたたましい雨音も相まって、アダンは鬱々とした気分になる。

アリスは窓から見える、糸のように垂れ下がる雨を覗き、宿に置いてあった紙に何やら書き始めた。

おそらく文字だろう。


アリスはその紙をアエに見せたあと、アダンのほうに視線をやった。


「どうやらアリスは昨日の老人のことが心配らしいよ」


アエはその紙の内容をアダンに伝え話す。


「なんで心配なんだ?」

「その老人は家のない浮浪者らしい。だからこの大雨をどう凌いでいるのか気になるらしい」

「あの老人は見た感じここに長く住んでいる。雨の対策くらいしっかりしているだろう」


それに、とアダンは付け加える。


「アリスは自分の心配をすべきだ。この場所全体がアリスの命を狙っているようなものだ。まさか―――心配だから見に行こうなんて思ってないよな」


アリスはアダンからの鋭い視線を受け、顔をうつむかせた。


"図星か"、とアダンは思う。


しかし、今の行為はアダンにしては珍しい。普段、アダンはアリスに対して威圧的なことはしない。だが先ほどのアダンの問いかけはアリスに抑圧を与えようという意図があった。


それは昨日の―――アリスが行方不明になったことが影響している。アダンは過保護になりつつあった。

あの瞬間の絶望はそれだけの影響力インパクトがあったということだ。


しかしこのことにアダンもさきの行為を以て、今しがた自覚できた。


"きつく当たりすぎたか?"、とアリスの顔色をうかがおうとするが、そのおもては下を向くばかりで、確認できない。


はあ、とため息をつき、アダンは立ち上がる。そして扉のほうへと向かう。


「俺が見に行けばいい話か・・・」


アダンはそう言って、部屋を出ていった。


「まったく・・・君たち兄妹ってホントお人好しだよね。普通、見ず知らずの人をそこまで心配するかなあ」


全くもってそのとおりだろう。

アリスは老人を心配した。

アダンはそんなアリスを思いやった。

他人を思いやるのは美徳のように思えるが、それは自分を消耗する手段にほかならない。救いは余力があるからこそ出来る芸当だ。


この自己犠牲に等しい行為はいづれ後悔することになるだろうということを、アダンたちはまだ知らなかった。



アダンは昨日、老人と会った場所まで向かう。すると、そこには昨日と同じようにあぐらをかいて座る老人がいた。そして大粒の雨を一身に受け、微動だにせずに居た。


「なんで雨宿りしないんだ? 屋根があるところはそこら中にあるだろ?」


アダンは老人にそう問いかける。その老人はアダンの声に遅れて反応する。


「こうしてると落ち着くんじゃ。世の中、確証のない、ただぼんやりとした不安が横行するばかり。雨が弾ける感覚、肌を伝う感覚に集中していると、そういうものとは離れて行けるような気がするんじゃ」


ぼんやりとした不安。それは今のアダンにとって思い当たることが多かった。

いつ殺されるかわからない不安。

所属できる集団がない不安。

大切な人を失う不安。

などなど。


いづれもアダンにとって、最終的な死を意味する。そして死に至るまでにあり得る未来があまりにも多すぎる。

そんな慢性的な不安は蚊のごとく纏わりつき、離れる気配がない。不安は徐々にアダンを侵食していた。


「俺の妹が心配していた。けど、その様子なら大丈夫そうだな」

「なるほど、お嬢ちゃんとお兄ちゃんは兄妹だったのか。心配してくれてありがとう。しかしお兄ちゃん、昨日から思っとったが、色々と訳ありそうじゃな」


アダンは返答しない。これ以上、この老人と関わり合いたくない気持ちと、老人についての興味がせめぎ合っているからだ。

なぜ、葛藤が生まれるのか?

アダンはこの老人に得も言えない親近感を感じていたからだ。その発信源はどこからか、アダンにも定かではない。


「お兄ちゃん、今いくつだ?」

「さあ、知らない」


老人はしみじみと、そう言った。

その発言には久しぶりの感覚が込められていた。嘘の気配だ。


「わしの家系は代々、死体の処理をする職業でな。穢多えたって呼ばれて差別されてきた。まるで混血のような扱いじゃった」


アダンは混血という言葉になるたけ反応しないようにする。


「顔を見るなり殴られ、仕事道具は壊され、金品は盗まれる。挙句の果てに母親は殺された。わしはそんな環境から抜け出した。父親は環境を変える勇気がなかった。だからわしは父親を置いていった」


老人は顔をうつむかせた。その顔から強い悔恨が垣間見えた。


「今でも父親が夢に出る。あのとき無理矢理でも連れ出して、二人で暮らすべきだった」


そして老人が故郷を出て、数ヶ月後―――。


「わしは生まれた場所からずっと遠い場所で普通の職業に就いた。こんなわしでも普通の生活が出来ることに感動した」


アダンはそれを自分に当てはめて考えてみようとする。しかし、環境を変えたところで自分が混血である限り、普通というものを享受することはできないだろう。

であるのなら、アダンはこの老人のどこに親近感を覚えたのだろうか。


「それから数年が経って求婚された。わしに一目惚れだったそうじゃ。しかし偽ったとしてもわしは穢多であることに変わらない。最初は断った。じゃが何度もわしに迫ってきた。だからわしは、その相手を、自分を信じて結婚した。わしのことをここまで考えてくれる人をどうして愛さずいられるだろうかって」


"そして―――"、と老人は言葉を紡ぐ。


「一人の子供を授かった。元気に泣く男の子じゃった。わしはこの子のために生きようと決心した。じゃがわしは気づいた。この決心は、もしかしたらわしの父親だってしたんじゃないのかって。それに気づいたらどうしようもなく父親のことが心配になって、それで―――」


老人は大きく息を飲んだ。


「つい、妻に自分の過去を喋ってしまった。そうしたら―――どうなったと思う?」


老人はアダンの方を向いた。その顔はどこか自嘲じみているが、言葉をかけていい雰囲気ではなかった。


「妻は刃物で寝ていた子供を突き刺した。そして、自分の腹を切り裂いた。そのあと喉に刃物を突き立てて、こう言った」


"こうして苦しんで死ぬのは全部あなたのせいだ。一生苦しんでほしい"、と。


「妻は長い時間、苦しみながら死んだ。そして救急が来た時、わしを指差して、"こいつは穢多だ"、と言った」


老人の声が震える。


「それ聞いた周りの奴らはいっぺんに形相を変えたよ。わしは弁明する間もなく、両目を潰された。それをした奴らは昨日まで一緒に仕事してきた奴らだった。じゃがわしが穢多だと聞いた途端にこれだ。本当に、この世界は―――」


『理不尽だ』


アダンの心の呟きが、老人の言葉と掛け合わさる。

そう似ているのだ。アダンとこの老人は。この世界の理不尽に悩まされる者同士。共通事項はそこだけ。だが悲しくもそこに強く惹かれ合った。

でなければ、アダンは老人の過去話に耳を傾けることもなかっただろう。


「なあ、お兄ちゃん。誰が悪かったんだろうな。身分を偽ったわしか、激情した妻か、それとも差別を作るこの人類―――世界か? どっちなんじゃなろうな・・・・・・」


しばし、無言の時間。

アダンには体感でそれは三十秒にも満たない。だが、正確にはそれは五分を超える長い時間だった。

老人はアダンが答えるまでただじっと待つ。


「俺は・・・・・・あんたが悪いと思う。この悲劇の発端はあんただ。あんたが環境を変えたから。あんたは家族と一緒に暮らすべきだった」


老人はその返答を聞いてただ、"そうじゃな"、と答えた。


「だけど―――それはあまりにも理不尽だ。だから―――そもそも生まれるべきじゃなかったんだろうな。そこには報いも悲劇も無いはずだから」


その考えはアダンの集大成であった。

アダンにとって、生とは意味もない理不尽。

だが、他人には幸せに生きてほしいなんて勝手に思ってしまう。そして、それをまた見届けたいという気持ちがある。そのためには理不尽にも生き永らえなくてはいけない。


まるで地獄のようだ。アダンの生は、他人の生なのだから。他人が死ねば自分もそのときに途絶える。そういう生き方をアダンはしている。そしてアダンはそれを受け入れるほかない。それがアダンというすでに確立した人格なのだから。


「生も死も無い―――ゆらぎ、か。それもいいのう。ありがとう、お兄ちゃん。わしの話を聞いてくれて。少し、心が晴れたよ。わしらは似とる。話せてよかった」


アダンは足先を老人の方から、後方へ。

雨足は少し弱まったものの、まだかなりの量の雨だ。

アダンはその場から去ろうとする。


そのとき―――


「もしかして―――混血?」


背後からそんなつぶやきが聞こえた。雨でかき消されかけていたが、たしかにそう聞こえた。アダンは恐る恐る振り返る。


「いや、すまん。実は昔、混血を見た時があってな。その時の感覚とちょっと似てたからつい、でも勘違いだ。こんなところに混血がいるはずがない」


老人は笑顔で手を振る。

だが、アダンはそうもいかない。危険を及ぼすかも知れない不穏分子をそのまま放置するのは、あまりにも日和見すぎるだろう。


危険はアダンだけに留まらない。アリスやアエにもだ。であれば、ここで排除すべきだ。

アダンは立ち止まる。


だがアダンの身体は、そうは動かなかった。

なぜなら、アダンは自分自身が理不尽の体現者にはなりたくなかったからだ。

それは今までの奴らと、老人の両目を潰した奴らと同じことだ。

アダンは踏みとどまり、宿へ帰ることにした。


「あの老人は元気そうだったぞ」


アダンは部屋に戻るなり、アリスにそう報告した。

しかし、そのアダンはずぶ濡れで、暗い顔をしている。

アリスとアエは何事かと思い、体を拭いてくれたり、色々話しかけたりしてくれる。


だが、アダンは心あらずでちゃんとした応答をすることはなかった。

アダンはずっと、今もなお迷い続けている。あの老人を殺すべきだったか、それとも放置してよかったのか。


その後も床に座り込み、ずっとそればかりを考えていた。

気づけば夜になっていた。

やがて考え疲れたのか、アダンはひっそりと眠りにつくのであった。

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