十日目

 彼を起こさないようにそっとベッドから抜け出して、私は静かに服を着た。そして、音を立てないようにドレッサーからメイク道具を取り出すと、洗面台に向かう。

 鏡を覗き込んだ私は、自分の顔を見て驚いた。


 私、笑ってる?


 こんな顔は見たことがなかった。

 初めて見る顔。

 初めて感じる気持ち。


 嬉しいような、切ないような。

 恥ずかしいような、誇らしいような。


 突然、その気持ちが弾けた。

 鏡の中の顔が強張る。


 今日は、彼と暮らし始めて十日目。

 人類の未来を賭けた試練の日。


 唐突に私は考えた。


 もし、彼が逃げたいって言ったら?


 それは無理だ。この区画には窓一つない。区画の外には、数千、あるいは数万の自衛官がいて、厳重な警備体制が敷かれている。


 じゃあ、もしも、彼が死にたいって言ったら?


 その時は……。


「何考えてるの!」


 鏡に向かって私が言った。

 蛇口をひねって、乱暴に顔を洗う。

 溢れ出すものをごまかすように、私は顔を洗い続けた。


 朝食を作っていると、彼が起きてきた。


「おはようございます」

「あ、おはようございます」


 目を合わせない彼を見て、私が笑う。


「今日はお寝坊さんですね」


 意地悪な私の言葉に、彼が頭を掻いた。


「すみません」


 彼はいつもと変わらない。

 それが、今はたまらなく愛おしく思える。


「急がないと検診に間に合わなくなりますよ」

「はい!」


 彼が慌てて顔を洗いに行った。

 くすりと笑って、私は炊飯器の蓋を開けた。


 今日の朝食は、卵焼きの大根おろしのせと漬物、おにぎりと、豆腐とネギのお味噌汁だ。

 最終日の朝食は糖質中心、かつ消化のよいものにするようにと、栄養士から指示が出ていた。最後だからといって満腹にさせないようにとも言われている。

 私はその指示を守った。彼が最大限の力を発揮できるよう、ここはプロに従うべきだと思ったからだ。

 ご飯をおにぎりにしたのは、ただの思い付きだった。


 島崎さんが作ってくれる料理には、栄養素とは違う別のエネルギーが入っている気がするんです


 彼の言葉を思い出しながら、想いを込めて握った。


 朝食を食べる彼の様子は、表面上は変わらなかった。


「美味しいですね。特に、このおにぎりは最高です!」


 彼が笑う。


「よかったです」


 私が笑う。

 いつものやり取り。

 いつもの朝。


 だが、この食事が終われば、そこから先には非日常が待っている。

 医師とカウンセラーの検診の後、彼はそのままこの区画から出て行くのだ。


「島崎さん」


 彼がはしを置いた。


「はい」


 私もはしを置いた。

 互いに顔は見ない。テーブルを見つめたまま黙る。

 その沈黙に、私が耐えられなくなった。


「工藤さん。もし、何か考えていることがあるのなら、遠慮なくおっしゃってください」


 彼が驚いて顔を上げる。

 唇が何かを言い掛ける。

 彼が身を乗り出す。

 彼がうつむく。

 彼が、座り直す。

 彼が天井を見上げる。

 そして彼が、私を見た。


「僕は、島崎さんを愛しています」


 私が驚いて顔を上げる。

 唇が何かを言い掛ける。

 私がテーブルに手を載せる。

 私がうつむく。

 私が、膝に手を戻す。

 そして私は、彼を見た。


「私も、あなたを愛しています」


 彼が嬉しそうに笑った。

 だから私も笑った。

 本当は笑えるはずなどなかった。それでも私は笑った。


「準備、してきますね」


 そう言って、彼が洗面所に向かう。

 歯を磨いて、ひげを剃って、髪を整えて、そして彼は……。


 もう限界だった。

 せっかく化粧もしたのに。

 ずっと我慢していたのに。


 私は泣いた。

 声を殺して私は泣き続けた。




「いってらっしゃい」


 私が言う。

 それなのに、彼は答えてくれない。


「島崎さん、顔を上げて下さい」


 そんな意地悪なことを言う。


「今は……だめです」


 そう言ったのに、彼は許してくれなかった。


「顔を上げてくれるまで、僕は行きません」


 私が渋々顔を上げる。

 泣いてパンダになってしまったので、化粧は慌てて落としていた。だから、今はすっぴんだ。


「男目線なのは重々承知で言いますが、島崎さんの素顔は、とても素敵だと思います」

「もう!」


 私が彼を叩く。

 彼が楽しそうに笑う。


「じゃあ、いってきます」


 彼が言った。


「いってらっしゃい」


 彼の顔をちゃんと見て、私が言った。


 微笑んだまま彼が出て行く。

 閉じた扉に体を預けて、私はまた泣いた。



 最後の報告会で”異常なし”と伝え、化粧をし直して荷物をまとめると、私は部屋を出た。

 区画を出るのは十日ぶりだ。窓から差し込む日差しが驚くほど眩しく感じる。

 建物を出ると、そこにサポートチームのチーフがいた。つい先ほどチャットで話したばかりなのだが、顔を合わせるのは、初日と今日の二回だけだ。


「試練に立ち会いたいと言っていたが、気持ちに変わりはないか?」


 問われた私が、迷いなく答える。


「はい、立ち会います」

「……分かった。こちらへ」


 一瞬だけ感情を見せた後、チーフは私の前を歩き出した。


「彼……えっと、対象者は、もう移動したのでしょうか」

「すでに試練の場に向かった。専属の医師とカウンセラーも同行している」

「そうですか」


 振り向くことなくチーフが答える。


「今朝の検診では、彼……対象者に、変わったところはなかったでしょうか」

「医師からもカウンセラーからも、異常なしとの報告があった」

「そう、ですか」


 チーフが建物の角を曲がる。そこに、黒塗りのワンボックスカーが停まっていた。

 無言でチーフがドアを開けてくれる。


「すみません」


 お礼を言って、私は車に乗り込んだ。

 ドアが閉まると、運転席から声がする。


「出発します。シートベルトをお締めください」

「分かりました。よろしくお願いします」


 シートに背を預けると、私は目を閉じた。

 揺れに身を任せながら、チーフとのやり取りを思い出す。


 異常なし


 彼は、最後まで貫き通したのだ。

 私は微笑み、そして、歯を食いしばった。



 試練の場は、都心から少し離れたところにある国営公園だった。一度だけ仕事で来たことがあるが、その時とはまるで印象が異なっている。

 侵略者の攻撃は免れていたので、破壊されたところはない。だが、園内には異様な緊張感が漂っていた。

 武装した大勢の自衛官が鋭く辺りを見渡している。様々な車両があちこちに配置され、空からは数機のヘリコプターが地上を見張っている。

 野次馬や、試練の失敗を願う人々の侵入を防ぐために、第一級の警戒体制が敷かれていた。


 車は、園内で一番大きな広場の端で止まった。

 運転手に礼を言って車を降りた私は、広場の中央を見て目を見開く。恐ろしく低い位置に、巨大な物体が浮かんでいた。

 羽も回転翼もない。噴射口もなければ、そもそも音さえ立てていない。

 人類が到達していない、未知の領域にいる存在。侵略者が乗る宇宙船だ。月の軌道上に浮かぶ母船に比べればはるかに小さいが、彼らが放ってきた攻撃機よりずっと大きい。


 その宇宙船の下には、侵略者が作り上げた奇妙な装置があった。

 彼が立ち向かう三つの試練。そのための装置だ。


 装置から少し離れたところにいくつかテントがあった。あのどこかに彼がいるのだろうか。

 周りを見れば、無数のカメラと中継車。世界中から集まったマスコミ人たちだ。侵略者の命令で、試練の様子は全世界に中継されることになっていた。


 去って行く車を見送る私に、一人の自衛官が近寄ってくる。


「島崎涼子さんですね」

「はい」

「サポートチームからお話は伺っています。ご本人の希望する場所で立ち会いをさせるようにと指示を受けておりますが」


 私は、ちょっと驚いた。

 そもそも、私が試練に立ち会う予定などなかったのだ。その私に車を用意してくれて、さらに、好きな場所での立ち会いまで認めてくれる。

 胸の中でチーフに頭を下げてから、私は答えた。


「では、一番近い場所でお願いします」

「……分かりました」


 少しだけ目を見開き、だが、自衛官はそのまま歩き出す。


「医療チームが待機しているテントにご案内します。装置までの距離は二十メートル。対象者の様子がかなりはっきり分かる位置です」


 わざわざそんなことを言ったのは、私に確認するためだろう。

 過酷で残酷な試練。それを間近で見る覚悟はあるのかと。


「構いません」


 強く答えて、私は自衛官のあとに続いた。


 テントには、数人の医師と看護師、そしてレスキュー隊員がいた。様々な医療器具や、電子機器を動かすための大型発電機まで用意されている。テントの外にはドクターヘリが待機していた。

 中に入ると、いきなり声が掛かる。


「やっぱりあなたも立ち会うのね」


 あのカウンセラーだった。

 いつもの柔らかオーラは影を潜めている。白衣姿の彼女の顔に、笑みはない。


「はい、立ち会います」


 カウンセラーに向き直って私は答え、続けて謝罪した。


「先日は、感情にまかせて失礼なことを言ってしまいました。本当に申し訳ありませんでした」


 きっちり三秒間頭を下げ、ゆっくり顔を上げる。


「私も悪かったわ。ごめんなさい」


 カウンセラーも頭を下げた。顔を上げた彼女が、じっと私を見る。そして、にこりと微笑んだ。

 柔らかオーラが復活した。その様子に、私はホッとする。いつも笑っている人がシリアスな表情をしていると、それだけで緊張してしまうのだ。

 彼女につられて私も微笑み、そして、辺りを見回してから聞いた。


「彼は、このテントにいないんですね」


 カウンセラーが、なぜかくすりと笑う。


「”彼”は、あいつらが用意した待機場所にいるわ」


 やけに”彼”を強調しながらカウンセラーが答えた。

 瞬間、私の頬が熱くなる。顔を伏せ、意味も無く咳払いを繰り返す。

 そんな私を楽しそうに見ながらカウンセラーが続けた。


「試練の装置から少し離れた場所に、タマゴみたいな形の小さな建物があったでしょう? 彼はあの中よ」


 そう言えば、そんなものがあった気がする。


「彼の体を事前に調べるそうよ。妙な薬を使っていないかとかもね」


 カウンセラーが大げさに肩をすくめてみせた。

 心身の苦痛を和らげる薬は、麻薬を含めていくつかある。そんなものを使われたら、やつらにとっては”つまらない”ということなのだろう。


「彼は逃げなかったのよ。今さらズルなんてするはずないじゃない」


 顔は笑っているが、目が怒っていた。

 彼を見守り続けてきた人間として、彼が疑われるのは腹が立つのかもしれない。

 その時、彼女の後ろにいた人物がイスから立ち上がった。


「始まるぞ」


 あの医師が、険しい表情で歩き出す。


「私たちも行きましょう」


 カウンセラーに促されて、私もテントを出た。

 装置から少し離れたところにあるタマゴ型の建物。その扉が開く。


「工藤さん……」


 中から出てきたその人を、私は強く見つめた。

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