九日目

「いってらっしゃい」

「いってきます」


 いつも通り彼を検診に送り出すと、私はソファに背を預けてため息をついた。


 彼は女と付き合ったことがない。だから女心なんて分からないのだ。

 などと偉そうに言う私だって、男と付き合ったことはないし、もっと言えば、人の心が分かるなんて思っていない。

 そんな私でも、さすがに分かった。彼は、とても大きなミスを犯したのだ。


 目を閉じれば浮かんでくる。

 彼の表情、彼の笑顔。


 耳を澄ませば聞こえてくる。

 彼の声、彼の言葉。


 こういうのを”刻まれた”というのではないだろうか。水を掛けようが消しゴムで擦ろうが、決して消えることのない記憶。


 僕のことなんて忘れて、ちゃんと幸せを掴んでください


 彼はそう言った。

 だけど。


「あんなこと言われて、忘れられるはずないじゃない」


 首を後ろにガクンと倒し、天井を見上げて私はつぶやいた。

 途端に、私は胸が苦しくなる。

 明日は試練の日だ。彼の考えが正しいなら、彼が生きていられるのはもうわずかな時間しかない。


 どうして彼がこんな目に遭わなければならないのか


 そんなことを考える。


 外の世界に出たら、じつは侵略者なんていなくなっているのではないか


 そんなことを考える。

 きっと彼も同じだったのだろう。意味のないことを何度も考え、叶わないことを祈り続けてきたのだ。

 それなのに、恐怖や不安を隠して私の前で笑い続けてきた。私の立場、私の未来、私の幸せを考えてくれてきた。

 私よりずっと大人で、私よりずっと強くて、そして、呆れるくらい優しい人。

 そんな彼に私がしてきたことと言えば、彼の気を引き、私を抱かせようとすることだけ。


「バカなんじゃないの!」


 悔しくて情けなくて、天井を見ながら私は泣いた。

 未熟で愚かな自分を心の底から呪った。


 その時、突然内線が鳴る。瞬間私は気付いた。


 報告会!


 慌てて内線に走り寄って受話器を取る。


「すみません! すぐにログインします!」

「……問題が起きた訳じゃないんだな?」

「大丈夫です。私がぼぉっとしていただけです」

「対象者は検診に行ったのか?」

「はい、先ほど向かいました」

「……分かった」


 壁に向かって頭を下げて受話器を戻すと、私は寝室に駆け込んでパソコンの電源を入れた。

 ネットワークにログインしてチャットを立ち上げると、即座にサポートチームからメッセージが来る。


 報告書はあとでいいから、チャットで報告するように


 承知した旨を返信して、私はいつもの報告内容を伝え始めた。

 メンバーからは、今日もしつこく彼の様子を聞かれた。明日は試練の日なのだから当然とも言えるが、私の返事がいちいち遅れたことも、メンバーを不安にさせたのだろう。

 私は葛藤していた。


 最後まで格好良く、胸を張って生きていたい。それが、僕の意思です


 彼の言葉が、ありのままの彼の様子を報告することを躊躇わせる。

 言葉を選びながら、結局私は、昨日までと同じ報告をした。


 異常ありません


 報告会を終えた私は、ベッドに倒れ込んで目を閉じる。


 異常ないはずないじゃない!


「もーっ!」


 布団を頭から被って、私は行き場のない感情を吐き出した。


 報告書を書き上げると、私は急いで掃除と洗濯を始めた。彼がゆっくりできるのは今日までなのだ。せめてきれいな部屋で過ごしてほしい。

 昼食はチャーハンにすることにしている。小さい頃母親が作ってくれたと彼が言っていたからだ。その話を聞いたのはここに来て割とすぐだったのだが、チャーハンは避けていた。パラパラに仕上げる自信がなかったからだ。それでも、今日はチャレンジしてみようと思っている。彼のためにできることはしてあげたかった。


 彼はいつもの時刻に戻ってきた。そして、いつも通りシャワーを浴びにお風呂場へと向かう。その隙に、医師とカウンセラーに彼の様子を聞きに行こうとも思ったのだが、やっぱりやめた。彼の表情は変わらなかったし、余計なことを聞いて私の気持ちが乱れるのもよくないと思ったからだ。


 昼食のチャーハンは、まずまずの出来だったと思う。ただ、それが本当に上手にできたのか自信はない。


「美味しいですね!」


 ずっと彼はそうだった。嬉しそうに、幸せそうにご飯を食べるのだ。

 チャーハンを頬張る彼を見て、私が微笑む。

 目を細めてモグモグと口を動かす彼を見ながら、私もチャーハンを頬張った。


 食後のコーヒーを飲む彼に、私は昨夜から考えていたプランを伝えた。


「工藤さん、午後はおうちデートをしましょう」

「おうちデート、ですか?」


 彼が首を傾げる。


「はい、おうちデートです」


 私が笑う。


「ただ、私はおうちデートなんてしたことがありません。だから、何をしたらいいのか全然分からないんです」


 彼が呆れたように私を見る。


「工藤さん、何をしたらいいか一緒に考えてくれませんか?」


 臆面も無く言い放つ私を、彼が見つめた。

 やがて、彼がにこりと笑う。


「たしか、サイドボードの中にトランプがありました」

「じゃあ、最初はそれですね」


 私は、サイドボードからトランプを取ってきた。それをテーブルの上に置いて、またも言う。


「私、トランプで遊んだことってほとんどないんです。教えてもらってもいいでしょうか」


 一瞬彼が目を見開き、だが、すぐに笑って答える。


「いいですよ。じゃあ、手始めに神経衰弱をやってみましょう」


 彼がトランプを持って切り始めた。


「神経衰弱は、裏にしたカードから同じ札を二枚引き当てるゲームです。まずはこうしてカードを並べて……」


 こうして私たちはトランプで遊び始めた。最初は神経衰弱、次はドボン、続いてスピード。

 子供らしい遊びをしてこなかった私にとって、トランプは新鮮で楽しかった。彼の教え方も上手だったし、初心者の私が意外といい勝負をしたこともあって、かなり盛り上がったと思う。

 トランプに飽きると、今度は山手線ゲームを始めた。テーマを決めて、そのテーマに該当するものを順番に答えていくというあれだ。答えに詰まった時の罰ゲームは、モノマネをすることになった。

 私も負けず嫌いだったが、じつは彼もそうだということが判明した。お互いに自分の得意分野をテーマにして、真剣に勝ちにいく。

 勝負は二勝二敗。私は、うぐいすの鳴き声と、現首相の口癖を真似た。もの凄く恥ずかしかったけど、頑張ってやってみた。

 彼は、ゴリラの真似と、私の知らないアニメのキャラクターのセリフを言っていた。何だか全然分からないのに、私は大笑いをした。


 大人の男と女が子供みたいに遊んでいる。子供みたいにはしゃぎ、子供みたいに笑っている。

 頭の片隅で呆れている自分がいた。同時に、これでいいんだという自分がいた。たぶん彼も同じだ。心から笑っている訳じゃない。何もかも忘れている訳じゃない。

 それでも私は楽しかった。彼と過ごす時間をとても楽しいと思った。


 夕方になると、私が言う。


「そろそろ晩ご飯の支度をしないといけません」

「あ、たしかに」


 彼が壁の時計を見る。


「今日は本格カレーです。工藤さん、手伝って下さいね」

「はい!」


 私たちは揃ってキッチンへと向かった。

 材料はすでに届いている。野菜と肉、カレー粉と様々なスパイスたち。


 二人で初めて作った料理をもう一度作る。それを私は、昨日の夜から決めていた。

 カレー粉からカレーを作るなんて、私はやったことがなかった。レシピは暗記しているが、その通りに作ったからと言ってうまくいくとは限らない。だけど、私に不安はなかった。

 彼にエプロンを着せてあげながら、私が聞く。


「工藤さん。野菜の皮剥き、いけますか?」

「もちろんです!」


 やる気満々の彼を見て、私が笑う。

 このカレー作りに失敗などない。味がどうであろうと、今日のカレーは必ず最高のものになる。


「絆創膏の準備はバッチリです。何カ所でも巻いてあげますからね!」

「何を言ってるんですか。無傷で皮を剥いてみせますよ!」


 右手に包丁、左手にじゃがいもを持って、彼が笑った。


 結論から言うと、その日のカレーは謎の味になった。彼が面白がっていろいろなスパイスを入れたからだ。


「こういうカレーは、お店では味わえませんよね」


 私の言葉に、彼が肩を落とす。


「カレーを甘く考えていました」

「これ、全然甘くないですけどね」

「あはは」


 彼は苦笑い。


「でも、二人で一緒に作った、世界でただ一つのカレーです。私は好きですよ」


 そう言って、私はスプーンをパクリとくわえた。複雑な風味が口いっぱいに広がって、それが鼻から抜けていく。目を閉じてそれを味わい、ごくりと飲み込む。


「美味しい!」


 私が笑った。


 彼が目を見開く。

 彼がうつむく。

 彼が、顔を上げる。そして、スプーン山盛りのカレーをパクリと頬張った。

 もぐもぐと口を動かし、ごくりとそれを飲み込む。


「うん、最高に美味しい!」


 彼が笑った。とても嬉しそうに笑った。

 彼はカレーを二回お替わりした。普段は一杯しか食べない私もお替わりをした。


「美味しかった!」

「満足です!」


 二人揃ってお腹をさする。

 互いの様子に、二人揃って笑う。

 カレーは大成功だった。


 彼がお風呂から出てくると、私は待ってましたとばかりに言う。


「おうちデートの続きです。二人で映画を見ましょう」

「いいですね!」


 ソファに並んで座って、私たちは映画を見た。それは、とても古い映画。家庭教師の女性と子供たち、そして子供たちの父親との交流を描くミュージカルだ。

 その映画は、大学生の頃”友人”に借りて見たことがあった。その時は三倍速で見て、適当に感想を言って終わりにしたのだが、そのことがなぜかずっと心に引っ掛かっていたのだ。

 改めて見たその映画は、とても良かった。とても幸せな気持ちにさせてくれた。さりげなく見る彼の横顔は終始穏やかで、それも私を安心させた。

 やがて映画が終わる。画面が暗くなり、静寂が訪れた。


「面白かったですね」


 彼が言う。


「はい、面白かったです」


 私が答える。


「じゃあ、寝ましょうか」


 彼が言う。


「そうですね」


 私が答える。


「島崎さん、お風呂に入っちゃってください。僕は、歯を磨いて寝ますので」


 彼が言う。


「……分かりました」


 答えて私が立ち上がる。


「おやすみなさい」


 彼が言った。


「おやすみなさい」


 私が、唇を噛んだ。


 お風呂の中で、私は彼の気配に集中する。

 扉を挟んだすぐ向こうで、彼が歯を磨いている。


 体を洗いながら、私は物音に集中する。

 蛇口をひねる音。そして、静寂。


 彼の気配がしなくなった。

 湯船の中で膝を抱え、声を殺して私は泣いた。




 コンコンコン


 突然のノックに私は驚く。


「島崎さん。もう、寝ちゃいましたか?」


 彼の声がした。

 ベッドの上に起き上がり、寝間着を整えて、私が答える。


「いえ、起きています」


 返事はない。

 深呼吸をしてから、少し大きな声で私が言った。


「どうぞ、中に入って下さい」


 躊躇いがちにドアが開く。

 明かりは、足下を照らす誘導灯のみ。彼の表情はよく分からない。


「どうぞ」


 もう一度私が言う。


「すみません」


 弱々しい声が寝室の中に入ってきた。

 私が、ベッドの端に腰を掛けて隣を示す。


「ここに座ってください」


 彼を招くと、やっぱり躊躇いながら、それでも彼は、私の隣に静かに座った。

 固く握られた拳。薄明かりに浮かぶ強張った顔。


 私は、彼の拳に手を重ねた。


「どうされたんですか」


 彼は答えない。

 拳が一層強く握られる。

 私は、彼にそっと体を寄せた。


「工藤さん、怖いですか」


 彼が答えた。


「いろいろ考えてしまうんです。それで、全然眠れなくて、どうしようもなくなって、来てしまいました」


 その声は、小さく震えていた。


「最後まで格好良くしていようって、思ってたんですけどね」


 苦しそうに彼が笑う。

 その横顔が、私の胸を締め付けた。


 私が、重ねた手に力を込める。

 彼が、唇をきつく結んでうつむく。

 

 うつむく彼を私が見つめた。

 そして私は、少し大きな声で言った。


「工藤さん。私のお願い、聞いてくれますか?」

「お願い?」


 彼が私に顔を向ける。

 その顔に微笑んでみせて、私は立ち上がった。


「立って下さい」

「はい……」


 戸惑いながら、彼が立ち上がる。

 私は、掛け布団を大きくめくって、そこをポンと叩いた。


「ここに寝て下さい」

「ここに?」

「そうです」


 彼がベッドに横になる。


「左手を横に伸ばしてください」

「左手ですか?」

「そうです。そう、そんな感じです」


 反対側に回り込んでいく私を、彼が目で追い掛ける。


「そのまま動かないでくださいね」


 そう言うと、私は彼の隣に横になった。


「何を……?」

「私、一度でいいから、腕枕っていうのを体験してみたかったんです」


 私が笑う。

 彼が目を丸くする。

 動揺しまくりの彼を放置して、私は上を向いたり横を向いたりと、腕の上をゴロゴロ動き回った。そして、最後に彼に向く。


「なかなかいい感じ、って言いたいところですけど、これ、あんまり寝心地よくないんですね」


 彼が呆れたように口を開いた。


「でも」


 私が、彼に身を寄せる。


「こうしていると、すごく安心します」


 彼が息を呑んだ。


「島崎さん……」

「はい、じゃあ工藤さん、起きてください」

「はい!?」


 驚く彼を無理矢理起き上がらせて、私は再び横になると、右手を横に伸ばした。


「次、工藤さんの番です。腕枕を体験してみてください」

「え? あ、いや……」

「早くしてください」


 右手でポンポンとベッドを叩く。


「えっと、じゃあ、失礼します」


 ゆっくり横になると、彼が遠慮がちに私の腕に頭を載せた。


「いろいろ試してみて下さい」

「はい」


 彼が、私の腕の上をゴロゴロ動き回る。そして、最後に私に向いた。


「どうですか?」

「うーん、いまいちですね」

「ですよねぇ」


 あははは


 互いに笑い合った。


「でも」


 彼が、私に身を寄せる。


「こうしていると、すごく安心します」


 彼が穏やかに目を閉じた。

 私が、空いている手で彼の頭を優しく撫でる。ゆっくり、ゆっくり、ゆっくりと撫でる。


 こんな気持ちは初めてだった。


 苦しくて切なくて、泣きたくなる。

 嬉しくて幸せで、泣きたくなる。


 私はこの時、はっきりと自覚した。


 私は彼を……


 ふと。


「死にたくない」


 声がした。


「死にたくないです」


 彼が泣いていた。


「死にたくない、死にたくない、死にたくない……」


 私の胸に顔を押し付けて、震えながら彼が訴える。

 堪らず私は彼を抱き締めた。


「大丈夫です。大丈夫ですから」


 その言葉に意味などない。

 大丈夫なんてことあるはずがない。


 それでも私は言い続けた。

 震える彼を抱いたまま、私は大丈夫と言い続けた。


 その時、突然彼が身を起こす。

 私の上に覆い被さって、私を睨むように見下ろした。


 薄明かりに浮かぶその顔は、恐ろしく強張っている

 それなのに、彼はまだ泣いていた。


 私が目を見開く。

 間近で彼を見つめる。


 私が目を細める。

 私が、微笑む。


 私が、下から両手を伸ばして、彼の頭をそっと引き寄せる。

 そして、彼の唇に、自分の唇を重ねた。


 驚いて彼が逃げようとする。

 放すまいと私が力を込める。


 彼が、力を抜く。

 私が彼を一層引き寄せる。


 彼が私を抱き締める。

 私も彼を抱き締める。


 やがて、私から離れた唇が小さく言った。


「僕は、嘘つきになってしまいます」

「私が黙っていれば、誰にもバレません」


 彼が目を見開いた。


「僕は、格好いい男でいたかったんです」

「工藤さんは、今でも格好いいですよ」


 もう一度引き寄せて、唇を奪う。


「僕は、島崎さんを、不幸にしたくない」

「何が不幸かを決めるのは私です。工藤さん一人で決めないで下さい」


 私がすねてみせる。

 そして、三度彼の唇を塞いでから、微笑んで言った。


「私、工藤さんが好きです」

「島崎さん……」


 今度は、彼が私の唇を奪った。

 私が、彼を強く抱き締めた。


 その夜、私たちは一つになった。

 疲れて眠ってしまうまで、何度も何度も互いを求め続けた。


 そして私たちは、試練の日を迎えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る