八日目

「工藤さん、ちょっと待ってください」

「はい?」


 振り向いた彼に、私が駆け寄っていく。


「絆創膏、巻き直します」

「あ、すみません」


 彼の左手の人差し指から絆創膏をそっと剥がし、化膿止めの軟膏を塗ってから、新しい絆創膏を巻く。


「これでよし。じゃあ、いってらっしゃい」

「いってきます」


 手を振る私に見送られて、顔を赤くしながら彼は検診へと向かった。


 今朝の朝食は、パンにした。彼が、”私がいつも食べているものと同じがいい”と言ったからだ。

 チーズを載せたトーストとベーコンエッグ、サラダとグレープフルーツ、そしてヨーグルトとコーヒー。

 じつは、これは半分以上嘘だ。本当の私の朝食は、チーズを載せて焼いたトーストとフルーツジュースのみ。時々サラダかヨーグルト、ごく稀に目玉焼きが付くくらいなので、だいぶ盛ってしまった。

 トーストをかじる彼を見ながら、今度から朝食はちゃんと取るようにしようと誓った。


 朝食の後片付けを終えると、私は緊張しながら報告会に臨む。だが、私が倒れたことについては誰も何も言わなかった。三人に感謝しながら私は報告を続けた。

 この報告会では、医師やカウンセラーからの報告も共有される。医師もカウンセラーも、彼の状態を”異常なし”と判断していた。私も同じ報告をしたのだが、それがサポートチームには信じられないらしく、今日もしつこく確認された。


 報告会が終わると、掃除と、昨日できなかった洗濯に取り掛かる。午前中から洗濯ができるおかげで、効率よく家事ができるようになった。そのせいなのか、それとも慣れてきたからなのかは分からないが、今日は家事がちょっと楽しいと感じた。


 昼食は、五目焼きそばにしてみた。私は食べたことがなかったのだが、料理本にあった”ボリュームたっぷり、男性の方も大満足!”という文字に惹かれたからだ。材料はやたらと多かったが、朝一番で頼んでおいたら昼前にはちゃんと届いた。ここから出た後も、この内線システムだけは欲しいと思った。


 彼は、五目焼きそばをとても喜んでくれた。寮の近くの中華料理屋でよく食べていたとのこと。


「お店のより全然美味しいです!」


 笑う彼を見て、私はちょっと不安になる。


 私の料理は、本当に美味しいのだろうか?


 そんなことを考えながら、しかし私は、気が付けば笑っていた。幸せそうにご飯を食べる彼の姿は、私の心も幸せにしてくれるのだ。


 午後の自由時間、彼はいつも通りソファで本を読み始めた。そして、いつも通り頭が揺れ始める。その姿を、私は今までと違う目で見ていた。

 彼は真面目な人だ。きっと、午前中のトレーニングも真面目に取り組んでいるに違いない。その疲労はあるだろう。

 だが、根本的に、彼はいつも寝不足だった。

 不安や恐れ、閉鎖的な空間に閉じ込められているストレスが睡眠を妨げている可能性はあるとは思うが……。


「どう考えても、原因の一つは私よね」


 寝室にタオルケットを取りに行きながら、私はため息をついた。


 人は、己の命に危機が迫ると、子孫を残さなければならないという本能が強くなるという


 上司の言葉が彼に当てはまるかどうかは分からない。でも、不安から逃れるために性欲に走るというのは何となく理解できる。もし彼がそうなった時、私がそれを受け止めなければならない。

 だが、彼は真面目で奥手だ。自分から女に手を出すことは難しい。だから私からアプローチをした。それなのに、彼は何もしてこなかった。

 だけど、彼が私のことを嫌いだということではないと思う。


 彼は、下手な私の料理を美味しいと言ってくれる。

 私とうまくやるために努力をしてくれている。

 私が倒れたことを誰にも言うなと医師に迫り、一生懸命肉じゃがを作ってくれる。

 試練のことより、自分のことより、私のことを心配してくれる。

 彼はいつも穏やかで、彼はいつも……。


 私は、何かとんでもない間違いを犯してはいないだろうか


 リビングに戻った私は、タオルケットを彼に掛けながら、その寝顔をいつまでも見つめていた。



 夕食はカツ丼にした。彼が近所のそば屋でよく食べていたと聞いたからだ。彼には副菜とお味噌汁作りをお願いしたが、それを彼は喜んで引き受けてくれた。

 わかめとキュウリの酢の物、いんげんの胡麻和え、なめこと豆腐のお味噌汁。私も作ったことのないものばかりだったが、料理本のレシピを思い出しながら、知ったかぶりをして彼に手順を伝えていく。

 私の担当は、カツ丼と食後のフルーツのみ。この日の夕飯は、ほとんど彼が作ったようなものだった。


「お店のより全然美味しいです!」


 昼間と同じように彼が笑った。

 昼間と同じように私も笑った。


 夕飯を食べ終えた彼は、食休みをしてからいつも通りお風呂へと向かう。水音がし始めたことを確認すると、私はリビングにある大型モニター横の棚の前で映画を探し始めた。

 パッケージのあらすじからいくつかの作品を選び、早送りで内容を確認する。そして私は、これならというものを見付け出した。

 今夜も彼と映画を見るつもりだ。でも、おとといのようなことをする気はない。パッケージを見つめながら、私は強く決意していた。



 お風呂から出てきた彼に、私が声を掛ける。


「工藤さん。よかったら、一緒に映画を見ていただけませんか」


 私の言葉に、彼は目を見開いた。

 だが。


「いいですよ」


 やっぱり彼は頷いてくれた。

 予想通りの返事。だからこそ、私は彼と向き合わなければならない。


 飲み物を用意し、部屋の明かりを落として、私はソファに座った。左隣に座る彼との距離は、五十センチ。少し緊張している彼をちらりと見てから、私は再生ボタンを押した。

 映画は恋愛物だ。金持ちの一人息子が貧乏人の娘に一目惚れ。娘に煙たがれながらも息子は粘る。やがて娘も心を開き、二人は両思いとなる。そこに息子の父親が現れて、二人の仲を引き裂こうとし……。

 ストーリーとしてはありきたりなものだった。だが、それでいい。私の目的は映画鑑賞ではないのだから。


 映画が始まって少しした頃、私が話し掛けた。


「工藤さん、聞いてもいいでしょうか」

「……どうぞ」


 彼の声は硬かった。


「どうしてご自分で名乗り出たんですか?」


 画面を見ながら私が聞く。

 彼が驚いているのが分かった。ちらりと私を見て、視線を戻す。


「僕が、最後でしたから」


 彼らしい答えに、私は小さく微笑んだ。

 侵略者が与えた最大十回のチャンス。その十回目に選ばれたのが彼だった。

 画面の中では、逃げる娘を息子が追い掛けている。逃げても断っても諦めない息子に、この後娘は心を開くのだ。

 作品の一つの山場。でも、そのシーンは私の頭に入ってこない。

 気付かれないようにそっと深呼吸をしてから、なるべくさらりと聞いた。


「工藤さんは、怖くないんですか」


 とても勇気のいる問いだった。

 手のひらが汗で冷たくなっていく。聴覚に全神経が集まっていった。


「怖いですよ」


 正面を向いたまま、彼が答えた。


「考えないようにしてはいますが、やっぱり考えてしまいます。二日後には試練がやってくる。そして僕は、間違いなく死ぬ」


 正面を向いたまま、私が目を見開いた。


「宇宙の彼方からやってきた侵略者が、地球を諦めるはずありません。人類に試練を課したのは、ただ遊んでいるだけです。金持ちが狩りをするのと同じです。これは、遊びなんですよ」


 寂しげに彼が言う。


「試練は、必ず失敗するように仕組まれている。そう考えるのが自然です」


 私の手が震える。


「不安です。怖いです。名乗り出たのは失敗だったと後悔もしています。今この瞬間、死んでしまえば楽になるかもなんてことも、しょっちゅう考えます」


 画面の中で、息子が娘を抱き締めた。

 私が、拳を握った。


「それでも、僕は試練に臨みます。そこに大した理由はありません。強いて言うなら、僕の性格です」


 彼はそう言った。

 だがそれは、覚悟の決まった人の声ではなかった。

 彼の声は、小さく震えていた。


 私が彼に顔を向ける。

 震えているのは声だけではなかった。強く握られた両手も、その肩も震えている。

 それを見て、私はどうしようもなく腹が立った。


「どうしてそんなに格好付けているんですか」


 彼の顔が強張る。


「工藤さん、震えてるじゃないですか」


 彼が歯を食いしばる。


「怖いんですよね? 我慢してるんですよね? それでも試練に挑むって言うんですよね?」


 彼がうつむいた。


「だったらっ」


 私が大きな声を上げた。


「私を抱けばいいじゃないですか! 女を抱いている間は恐怖を忘れられるでしょう? 私はそのためにここに来たんですよ!」


 彼が驚いて私を見た。

 叫ぶように私が言う。


「不安を感じたら、私を押し倒せばいい。疲れて眠ってしまうまで私を抱けばいい。あなたにはそれが許されているんです!」


 目を見開く彼に、私が詰め寄る。


「どうして取り乱したりしないんですか?」


 彼に迫る。


「どうしていつも笑っていられるんですか?」


 彼の腕を掴む。


「どうして私のことなんか気にしてくれるんですか!」


 私が彼を強く睨んだ。

 彼が私を見つめ続けた。


 やがて、彼が視線を外した。

 そして、顔を赤くしながら、恥ずかしそうに言った。


「一目惚れだったんです」

「……え?」


 腕を掴んだまま、私が目を見開く。


「島崎さんが扉を開けて入ってきた時、何て素敵な人なんだろうって思いました。立っている姿がきれいでした。微笑む顔も素敵でした」


 彼が私をちらりと見て、慌てて視線を戻す。


「僕は、島崎さんのことを何も知らない。それなのに、出会ったばかりだというのに、僕は、島崎さんを好きになってしまったんです」


 動きを止めたまま、私は彼の言葉を聞き続けた。

 うつむいたまま、彼が言葉を続けた。


「面白くもない僕の話を聞いてくれたり、苦手だと言いながら料理をしてくれたり。日を追うごとに、僕の気持ちはどんどん高まっていきました」


 その顔に微笑みが浮かぶ。


「島崎さんが、仕事として僕に優しくしてくれているのは分かっていました。それでも僕は嬉しかった。僕は、島崎さんのことをどんどん好きになっていってしまったんです」


 頬が紅色に染まっていく。


「好きになった人に、みっともない姿を見せたくなかった。ましてや、欲望のはけ口にするなんて絶対にできなかった。だから僕は我慢をした。だからこそ、僕は我慢ができたんです」


 言い終わった途端、彼が気まずそうに笑った。


「すみません、変なこと言っちゃって。こんなこと言われたら、島崎さんが困っちゃいますよね」


 掴まれていない反対側の手で、彼が照れたように頭を掻く。

 私は、彼の腕を放して彼を見つめた。


 男から告白されたことは何度かあった。でも、告白されて心が動いたことなど一度もなかった。

 それなのに、今、私の心は乱れていた。


 嬉しい?


 少し違う。


 迷惑?


 それも違う。


 私は、申し訳ないと思った。

 こんな自分を好きだと言ってもらったことが、申し訳なくて、いたたまれなかった。


 私がうつむく。

 そして、小さな声で言った。


「物心付いた頃から、うちは貧乏でした。私は貧乏がいやでした。だから官僚になりました」


 唐突に始まった話に、彼が首を傾げて私を見る。


「官僚だからって、最初から給料がいい訳じゃないんです。地位を上げなければ、いい給料はもらえない。そのためには必死で働く必要があったけれど、自分の時間がなくなることなんてどうでもよかった。私は、安定した、それもできるだけたくさんの収入が欲しかったんです」


 遠慮がちに彼が聞いた。


「それは、奨学金の返済とか、お母様に仕送りをするためとかですか?」

「それもありますが、本質的には違います」


 奨学金の返済は、今の給料であれば何の問題もなかった。母への仕送りも、最低限しかしていない。稼げなくなって泣きついてきた母に、義務感はあっても愛情など持ってはいなかった。


「お金に困っている訳でも、生活が苦しい訳でもないんです。私は、ただお金が欲しいんです。お金がないのが怖いんです」


 画面に目を向けて、私が言った。


「半額になったおにぎりを、杖を突いたおじいさんと奪い合うのがいやでした。ポケットティッシュをもらうために駅前を歩き回るのもいやでした。右と左で色の違う靴下を履いて学校に行くのもいやでした」


 彼が息を呑んだ。


「携帯もスマホもパソコンもない。テレビはあるけど壊れて映らない。教室で交わされる会話の半分以上が分からない。何も知らないと馬鹿にされる。可哀想だと憐れまれる。そのすべてがいやだったんです」


 画面の中では、金持ちの息子が貧乏な娘に服を選んであげていた。

 嬉しそうな娘の顔を、私が見つめる。


「中学生になった時、先生にいろいろ聞いて、官僚になれば貧乏から抜け出せるって思ったんです。それ以来、私は官僚になることだけを考えて生きてきました。そして、ちゃんと官僚になることができました」


 息子と娘が幸せそうに歩いている。

 娘は、リボンの掛かった箱を大事そうに抱えていた。


「仕事は順調でした。面倒な仕事も残業も一切厭わない私を、上司も認めてくれていました。同期の中で最初に昇進するのは私だろうって、周りからは言われていたんです。でも」


 歩く二人の横に、突然黒塗りの車が止まった。

 車から男たちが降りてくる。その中に、息子の父親がいた。


「ある日、私は一つの仕事を任されました。その途中で、私は自分が致命的なミスを犯していることに気付いたんです」


 二人が無理矢理引き離される。

 父親が、札束を娘に投げ付けた。


「それが明るみになれば、確実に私のキャリアに傷が付くようなミスでした。私は怖くなりました。給料が減るんじゃないか、もう出世ができなくなるんじゃないかって」


 画面の中で、娘が言う。”お金なんていりません。私は、この人と一緒にいられるだけで幸せなんです”

 純粋で清らかな瞳。毅然と愛を貫くその姿。

 私は、その姿から顔をそらした。そして、能面のような声で言った。


「だから私は、失敗をもみ消してくれるよう上司にお願いをしたんです。その見返りとして、私は、自分の体を差し出しました」


 彼が目を見開いた。


「私は、男性と付き合ったことがありませんでした。その上司が初めてだったんです。それでも私は迷いませんでした。収入や出世の可能性を失うことに比べたら、そんなことは何でもないって思ったんです」


 淡々と私が語る。


「その甲斐あって、私のミスが表沙汰になることはありませんでした。私は、そのことに心の底からホッとしました。そして私は、何食わぬ顔をして仕事を続けたんです」


 画面の中で、息子と父親が言い争っていた。

 それを聞きながら、冷めた声で私が言った。


「私は壊れているんです。目的のためなら、自分の体を差し出すことのできる人間なんです。だから、工藤さんに好意を持って頂く資格なんてないんですよ」


 私が、彼に顔を向けた。


「私を軽蔑してください。私のことを人として見ないでください。そして、私を遠慮なく抱いてください。そういう風に扱われるのが、私には似合っているんです」


 彼の目を真っ直ぐに見て、私が言った。


 歪んだ心と隠し続けてきた闇。

 それらをすべて吐き出して、私は、意外にもスッキリしていた。


 真面目な彼には受け入れがたい話だったろう。こんな女に好きだと言ったことを後悔しているに違いない。もしかすると、今すぐここから出て行けと言われるかもしれない。

 そうなってしまったら、私は仕事に失敗したことになる訳だが、それは仕方なかった。このことが原因で彼が試練から逃げてしまったのなら、全人類に頭を下げるしかなかった。

 それでも。


 彼を騙し続けるより、ずっとましだわ


 心の中で、私は笑った。

 その時。


「身の回りの世話をしてくれる女性が来ると告げられた時、僕は理解しました。僕の不安を和らげ、場合によっては、僕の欲望を受け止めるためにその人は来るんだろうって」


 彼が話し出した。


「恥ずかしながら、この年になるまで、僕は女性と付き合ったことがありません。だからというのも変ですが、死ぬ前にそういう経験をしてもいいかなって、ちょっと思ったりもしました」


 彼が下を向く。


「でも、今はそんなこと考えてません」


 顔を上げて、彼が私を見る。


「初恋とか憧れとか、そんなものも含めて、今僕が感じているのは、過去最大級の”好き”なんです」


 彼が笑った。

 私の心が、揺れた。


「島崎さんの話を聞いて、びっくりしています。少し残念だと思ったことも事実です」


 彼が言った。


「だけど、やっぱり僕は、島崎さんが好きです。好きな人のことは大切にしたい。だから僕は、島崎さんを抱くなんてことはしません」


 笑ったままで彼が続ける。


「間違いなく僕は死ぬ。人類は、侵略者たちに支配される。でもね」


 大きな手が、私の手に重なった。


「島崎さんは、これからも生きていけるんです」


 私が目を見張る。


「奴隷みたいに働かされたり、ひどい扱いを受けることはあるかもしれません。それでも、島崎さんは生きていくことができるんです」


 大きな手が私の手を握った。

 その顔が、ふいに陰る。


「だけど、もしかすると、僕と一緒に過ごしたことが周囲に伝わってしまって、島崎さんに後ろ指を指す人が出てくるかもしれない。仕事なら何でもする女だなんて、蔑みの目を向けられるかもしれない」


 私はうつむいた。

 あり得る話だ。私が彼と一緒にいたことは、いずれどこからか漏れるだろう。


「そうなったら、島崎さんはつらい思いをすることになる。この仕事を引き受けたことを後悔するかもしれない」


 悲しそうに彼もうつむく。

 その彼が、顔を上げて、強い声で言った。


「そうだとしても、僕とは何もなかったという事実があれば、本当に少しだけかもしれないけど、島崎さんの心の支えになると僕は思うんです」


 私が、うつむいたまま目を見開いた。


 自分の死が迫るこの状況で、私なんかの未来のことを……


 大きな手の中で、私は自分の手を握る。

 目を閉じ、気持ちを鎮め、そして、小さな声で言った。


「私は、誰に何を言われようと平気です。最初からその覚悟で……」

「島崎さんは、自分が壊れているって言ったでしょう?」


 私の言葉を彼が遮る。


「壊れていることを自覚している。つまり島崎さんは、ご自身の現状が望ましいものではないと思っているんですよ」


 私が思わず顔を上げた。


「そう思っている人が、他人に中傷されて、傷付かないはずないじゃないですか」


 彼の手が、私の両手を包み込んだ。


「死んだ僕が、生きている島崎さんを苦しめるなんてあってはならないんです。島崎さんには幸せになってほしい。そのためなら、どんな小さなことでもしてあげたい」


 私が彼の両手を見つめる。

 大きくて、とても暖かいその手。


 私の視界が歪み始めた。


「僕のことを憶えていてくれたら、それは嬉しいです。だけど、島崎さんが幸せになるためなら、忘れてもらって構いません。素敵な人と出会うことがあったなら、その出会いを大切にしてください。僕のことなんて忘れて、ちゃんと幸せを掴んでください」


 胸の奥から熱いものが湧き上がってくる。

 私がそれを必死で押さえ込む。


「僕は、島崎さんに手は出しません。それでも、ちゃんと試練は受けます」


 彼の言葉が、私の努力を無駄にした。

 私の目から涙が溢れ出す。


「好きになった人の幸せを願いながら死んでいきたい。最後まで格好良く、胸を張って生きていたい。それが、僕の意思です」


 私が、彼の手を引き寄せた。

 大きな手を胸に抱いて、私は泣いた。

 画面の中で、笑顔の父親が二人を祝福していた。

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