七日目

「おはようございます」


 対象者の声で、私は顔を上げた。


「おはようございます。よくおやすみになれましたか?」

「はい」


 洗面所へと向かう対象者の顔はよく見えない。でも、その歩く姿は、よく寝たとは思えないほど生気がなかった。


「まあ、私も同じなんだけど」


 化粧で隠してはいるが、私も目の下の隈がひどい。昨日の夜は、結局ほとんど眠れなかった。


 朝食を終えて対象者を検診へ送り出すと、私は定例の報告会に臨んだ。サポートチームとチャットでやり取りをするが、”対象者に異常はない”という私の報告に、今日はやけにしつこく確認が入った。


 本当に異常はないのか?

 対象者が無理をしている様子はないか?


 気持ちは分かる。試練まで、今日をいれてあと四日。チームの人たちも、自分だったら耐えられないと思うのだろう。

 立て続けの質問に、私は”昨夜対象者は、いつもより早めにベッドに向かいました”と答えた。

 すると、チームの一人から質問が来た。


 君は、対象者と同じ寝室で寝ているのか?


 それを読んだ途端、私は頭に血が上っていくのを感じた。直後、今度はそれが一気に引いていく。

 めまいがした。頭がクラクラした。

 吹き出る冷たい汗を拭い、歯を食いしばりながら、私は返信をする。


 別の寝室で寝ています


 それに対する返信はなかった。

 辛口栄養士からの”果物が足りない”という指摘をもって、報告会は終わった。

 

 パソコンを閉じると、私はベッドに倒れ込んだ。おそらく貧血を起こしたのだろう。以前にも通勤途中で経験している。

 だが、その時とは何かが違った。


 胸が苦しい。

 胸が、痛い。


 真っ暗な視界に色が戻ってくるまで、私はじっとその苦しみに耐え続けた。


 しばらく休んでいると落ち着いたので、私は掃除を始めた。下着も任せてもらったので、本当なら洗濯も始められるのだが、それは午後に回すことにする。体調があまりによくなかった。

 掃除を始めたものの、今日は集中力がなかった。ダイニングテーブルの脚につま先をぶつけたり、同じところを二度掃除したり。

 私の頭の中は、昨夜のことでいっぱいだった。


 どうして対象者は私を避けたのか


 対象者のベッドのシーツを取り替えながら、私は考える。

 間違いなく、あれはわざとだ。私と一緒に過ごすことを避けていた。

 

 何か気に入らないことを私がしてしまったのだろうか

 私に知られたくないことがあるのだろうか

 報告書は間違いで、じつは女に興味がないのだろうか


 いろいろ考えてみるが、分からない。

 自分がどうしたらいいのか分からない。


 悔しい

 情けない

 恥ずかしい


 様々な感情が渦巻く。


 私だって、やりたくてやってる訳じゃない


 そんな言い訳が浮かんでくる。


「もういやっ!」


 衝動的に、私は枕を掴んでベッドに叩き付けた。

 対象者のベッドを何度もバンバン叩きながら、私は叫び、そして泣いた。


 泣き止んだ私は、慌てて掃除を終えるとキッチンに向かう。

 いつもよりだいぶ遅くなってしまった。早く昼食を作り始めないと、対象者が検診から戻ってきてしまう。

 今日はきのこのスープパスタだ。料理本のページを思い出しながら、冷蔵庫の取っ手を握る。

 その時、目の前がまた暗くなってきた。咄嗟に私はその場にしゃがみ込む。

 頭から血の気が引いていく。視界がどんどん暗くなっていく。


 ちょっとまずいかも


 そう思ったのが、私の記憶の最後だった。

 私は、キッチンの床にどさりと倒れ込んでしまった。




 気が付くと、私はベッドに横になっていた。左の腕には、点滴のチューブが固定されている。


 ここは、医務室?


 ギシッ


 何かがきしむ音がした。

 私が顔を向ける。そこには、イスから立ち上がった専属医師がいた。


「寝不足と過労だね」


 患者に向けるにはちょっと冷たい声だ。


「すみません」


 それだけ言って、私は天井を見た。

 

 またやってしまったのだ。カウンセラーばかりか、とうとう医師にまで面倒を掛けてしまった。

 悔しいとか恥ずかしいとか、そういう思いは不思議と湧いてこない。

 力が抜けた感じだった。それは、決していい意味ではない。

 それはまさに……。


「対象者が真っ青な顔で駆け込んで来た時は何事かと思ったが、まさか君が倒れているとは思ってもみなかったよ」


 医師が淡々と話し出した。


「ただの過労だろうって伝えたら、もの凄くホッとしていた。あの男は、本当にいい奴なんだね」


 笑いもせずに、そんなことを言う。


「あの……対象者は……」

「しばらくここにいたんだが、治療の邪魔だと言って追い出した。対象者の昼食は、カウンセラーの先生が作ってくれたから心配しなくていい」

「そう、ですか」


 まったくありがたいことだ。私の役立たず振りがさらに際立ってしまった。

 気持ちが萎んでいく。心が冷たくなっていく。


 もう終わりね


 私は静かに目を閉じた。

 その時。


「君が倒れたことは、サポートチームに知らせていないから」

「えっ?」


 驚いて私が目を開いた。


「対象者からのたっての願いだ。君が倒れたことは、誰にも言わないでほしいってね」


 ベッドの真横に立って、医師が言う。


「あんなに必死に頼まれては、頷くほかなかったよ。このことは、カウンセラーの先生も承知している」

「どうして……?」


 目を見開く私を無視して、医師が体温計を差し出した。


「脇の下に挟んで」

「あ、はい」


 受け取ったそれを持ったまま、私が医師を見つめる。


「挟んで」


 もう一度言われて、私は点滴のチューブを気にしながら、毛布の下でブラウスのボタンを外し始めた。

 もぞもぞと動く私を、医師が見下ろす。


「試練の日まで対象者の健康を維持し、試練に向けてできうる限りその体を鍛えることが私の仕事だ」


 私の疑問を放置したまま、医師が話し始めた。

 体温計を脇に挟み終えて、改めて私が医師を見る。


「仕事を為すためには、自分自身が健康でなくてはならない。だから私は、自分の健康維持にもきちんと気を配っている」


 今の私には嫌味とも取れる言葉だ。

 だが、なぜかそこに棘は感じない。


「この仕事が回って来た時には、とんでもないことになったと思ったものだ。人類の命運を握る仕事など、できれば避けたい。それが本音だった」


 この医師は、表情と言葉がどうにも噛み合わなかった。

 無表情なままで、医師が言う。


「それでも私が仕事を受けたのは、対象者が自ら名乗り出たと聞いたからだ」


 私がまた目を見開いた。


「試練の内容は知っていたはずだ。それでも対象者は名乗り出た。それなのに、私がこの仕事を辞退できるはずがない」


 医師が私を見つめる。


「勇気ある対象者を全力でサポートして、ベストな状態で試練に送り出す。それが私の仕事であり、私の使命だ。逃げ出したいと思うほどのプレッシャーはあるが、私は逃げない。私は、そう決めたのだ」


 毛布の下で、私はぎゅっと手を握った。

 ちょうどその時、ピピッと小さな音が鳴る。

 私から受け取った体温計を見ながら、医師が言った。


「君が目覚めたことは対象者に伝えておくから、その点滴が終わるまでは寝ていなさい。そして、今日だけは無理をしないように」

「はい」


 返事をした私に頷くこともせず、最後まで表情を変えないまま、医師はベッドから離れていった。

 再び灯った炎を胸に感じながら、私はゆっくりと目を閉じた。


 まだ、終われない




 次に目が覚めた時には、心身ともにすっきりしていた。

 医師に礼を言って、私は医務室を出た。左を向けば、突き当たりには扉がある。扉の向こうは、私と対象者が暮らすエリアだ。

 扉へと歩きながら、私は考える。


 どうして対象者は、私が倒れたことを言わないでほしいと頼んだのだろうか


 サポートチームが知れば、何らかの手を打つに違いない。当然、私を外すという選択肢も考えるはずだ。


 私に残って欲しいと思ったから?


 そう考えるのは、都合がよすぎる気がする。


 じゃあどうして?


 明確な答えは浮かんでこない。

 ただ、もしかすると。


 彼は、自分のことより他人のことを優先してしまう人だわ


 カウンセラーは、そう言っていた。


 もしも対象者が、私の立場を考えてくれていたとしたら……


 答えは対象者の中にしかない。

 だけど、一つ思ったことがある。


 対象者が私のことを考えるほどに、たぶん私は、対象者のことを考えていない


 再びカウンセラーの言葉が甦る。


 あなたも、あの人のことを”対象者”だなんて考えない方がいいと思う


 ずっと無視してきた言葉。いつまでもチクチクと痛み続ける小さな傷に、私はそっと触れる。

 あの童顔ショートヘアは、私にとって、対象者を”人”として考えることがどれほどつらいことか、たぶん分かっていない。

 それでも。


「やっぱり彼は、”人”なのよね」


 苦笑い。

 大きなため息。

 深呼吸。

 そして。


「よし!」


 身だしなみを整え、気合いを入れて、私は扉を開けた。



 部屋に入ると、すぐに声がした。


「島崎さんですか?」

「はい」


 答えて、私はキッチンへと向かう。


「もう大丈夫なんですか?」

「はい、大丈夫です。ご心配をお掛けして申し訳ありませんでした」

「いえいえ。島崎さんがお元気なら、ノープロブレムです」


 右手に包丁、左手にじゃがいもを持ったまま、彼が笑った。


「あ、夕飯の支度……」

「島崎さんは休んでいてください。今日は僕が作りますから」


 彼の左手の指には、すでに絆創膏が巻かれている。

 一瞬私は考えた。でも、答えはすぐに出た。


「すみません。じゃあ、今日は甘えさせていただきます」

「はい!」


 彼が嬉しそうに答えた。



 寝室で寝ていようかとも思ったのだが、私はリビングで夕飯を待つことにした。本棚の前に立って、ずらりと並ぶタイトルを眺める。

 時代小説にSF、有名どころの文芸作品。科学雑誌に技術書、聖書やお経の類いまである。

 棚の端の、不自然に何もない空間にクスリと笑ってから、私は一冊の本を取り出した。それは時代小説。技術書と並んで彼がよく読んでいたジャンルだ。

 ソファに腰掛けてその本を開く。作品の舞台は、戦国時代の越後国。長尾虎千代、のちの上杉謙信の物語のようだった。

 上杉謙信は知っていた。だが、関東管領だったということと、武田信玄と戦ったということ以外は何も知らない。受験や仕事に必要ない知識を、私はほとんど持っていなかった。


 男って、ほんとにこういうのが好きよね


 そんなことを考えながら、それでも私は、いつの間にかその内容に引き込まれていった。

 人生で初めての、必要に迫られたものではない読書。感想文を書く必要もなく、得た知識を利用する必要もない。キッチンの様子を気にしながらも、私は読書を続けた。


 物語が一つの山場を越えた時、ふいに甲高いメロディが流れた。ご飯が炊けた音だ。

 時計を見ると、いつもの夕飯の時刻は過ぎている。キッチンを見ると、彼と目が合った。


「すみません、もう少しでできますので」


 右手には、まだ包丁が握られていた。

 一体何を作っているのだろうか。


「お手伝いしましょうか?」

「いいえ、大丈夫です!」


 強い返事に、私が笑う。そして私は、また本を読み始めた。


 夕飯は、一時間遅れで始まった。

 テーブルの真ん中に鎮座するのは、皿に盛られた大量の肉じゃが。その横には大根ときゅうりの漬物がある。小鉢には、何も載っていない冷や奴。その隣には、パックの納豆がそのまま置かれていた。

 湯気を立てているのは、クタクタになった玉ねぎの味噌汁。白いご飯だけが、いつもと同じようにつやつやと輝いていた。


「ほんとにすみません。肉じゃがが、思ったより手強くて」


 崩れたジャガイモに、形も大きさもまちまちな人参。玉ねぎはあるのかないのか分からず、肉はちょっと固そうだ。相当な時間煮込んだのだろう。


「結局、作れたのは肉じゃがと味噌汁だけになっちゃいました。すみません」


 謝ってばかりの彼に、私が言う。


「私、誰かに料理を作ってもらうのって、小さい頃以来なんです」


 彼がちょっと驚いた。


「私は、母の料理の味を覚えていません。だから、この晩ご飯が、私の記憶に残る最初の手料理の味になると思います」

「そ、それは、責任重大ですね」


 彼の顔が引きつった。

 それを見て、私が笑う。


「ふふふ、冗談ですよ。さあ、いただきましょう!」


 いただきます


 そう言って、私はまずは味噌汁をすすった。真剣な目に見つめられながら、続けて肉じゃがを頬張る。


「どうでしょうか?」


 心配そうな顔に向かって、私が言った。


「そうですね。お味噌汁も肉じゃがも、ちょっとしょっぱいです」

「ああ、やっぱり……」


 彼がうなだれる。


「だけど」


 私の声に、彼が顔を上げた。


「工藤さんの料理には、栄養素とは別のエネルギーが入っているような気がします。その証拠に、私、今とても体がポカポカしています」


 目を丸くする彼に向かって、私が言った。


「私が初めて記憶する手料理の味は、”すごく嬉しい”です」


 私が笑った。

 彼も笑った。


「いただきます!」


 彼が肉じゃがを頬張る。


「しょっぱい!」


 ごくりと飲み込んで、嬉しそうに言う。

 私たちは、しょっぱいしょっぱいと言いながらご飯を食べた。お腹いっぱいで動けなくなるまで食べた。

 二人で過ごしたこの日の晩ご飯は、私にとって初めての、”すごく嬉しい”だった。

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