六日目

 昨夜はよく眠れなかったが、それでも私はちゃんと定刻に起きて化粧をし、朝食の準備に入った。

 今日の朝食は、鯖の塩焼き、ほうれん草と卵の炒め物、白菜の煮浸し、ご飯、油揚げとねぎのお味噌汁にした。対象者は今日も美味しいと言って食べてくれたが、その目の下には、はっきりと隈があった。

 報告会で対象者の様子を聞かれた私は、ちょっと躊躇った後、異常なしと答えた。

 そう、異常はない。それは間違いなかった。


 午前中の掃除を終えた私は、乾燥機の中をクルクル回る二枚のパンツを見ながら考えていた。

 対象者が異性に興味がないということはないはずだった。それは、対象者の寮を調べた結果で分かっている。

 報告書の記載を見た時、この国にはプライバシーというものがないのかと驚いたものだが、今は平時ではないということなのだろう。

 昨日の夜、私はキスも、それ以上のことも受け入れるつもりでいた。ポケットには避妊具だって用意していた。そこまで行かなくとも、もう少し甘える態度くらいはあるだろうと思っていた。

 それが、何もなかった。

 もちろん、対象者が何も感じていなかったとは思っていない。あの時の様子は明らかに不自然だった。


 私の魅力が足りないってこと?


 大学時代も、社会に出てからも、私は何度か男から告白されている。少なくとも容姿に魅力がないとは思えない。


「さらに踏み込むしかないってことよね」


 もう後戻りはできないのだ。

 私は、ちょうど止まった乾燥機のフタを開けて、対象者のパンツを掴んだ。


「中央突破させてもらうわ」


 はじめて触った男物のパンツを握り締めながら、私は強く宣言した。



 この日の昼食はお好み焼きだ。キッチンで焼いて出してもよかったのだが、あえて私は、ホットプレートを使って、対象者の目の前でそれを焼いた。

 ジュージューと音を立てるお好み焼きを見ながら対象者が言う。


「両親が生きていた頃、テーブルを囲んでお好み焼きを焼いて食べたことがありました。何だか懐かしいです」


 嬉しそうに笑う対象者に、私も笑みを返した。


 明日からは下着も洗うと言った私に、対象者は、躊躇いながらも”お願いします”と言ってくれた。

 お好み焼きを頬張る対象者に、下着のことを気にしている様子は見えない。多少強引ながらも、一つ壁は突破した。


 昼食を終えると、対象者はいつも通りリビングで読書を始めた。だが、三十分もしないうちにその頭が揺れ始める。気が付くと、対象者はソファに横になっていた。

 タオルケットをそっと掛け、冷めてしまったコーヒーを片付けると、私は大急ぎで午後の家事に取り掛かった。

 夕飯はもう決めてある。今夜は手巻き寿司だ。

 昨日も今日も、栄養より雰囲気重視、二人の距離を縮めることを優先している。私は手巻き寿司などやったことはないのだが、きれいに巻けてもそうでなくても、何となく盛り上がりそうな気がしていた。

 一通りやることを終えた私は、対象者がぐっすり眠っていることを確認してから、着替えを持ってお風呂場へと向かう。

 今夜は、昨日よりさらに踏み込むつもりだ。一気に関係を進めることを目指す。


「勝負よ!」


 シャワーを浴びながら、私は強く言った。

 だが。


 気が付くと、シャワーに打たれたまま、私は胸を押さえてうつむいていた。

 鼓動が不規則に脈を打つ。お湯を浴びているというのに、体が冷たくなっていく。


「怯むな、私!」


 自分に発破を掛けるが、気持ちは鎮まらなかった。

 昨夜もたしかに緊張はしていた。それでも、目的のためなら自分を殺すことができたし、対象者に触れることも、思ったほどイヤじゃなかった。今も、対象者に対して嫌悪や拒否の気持ちがある訳ではない。

 それなのに、私の心は乱れている。


 何を恐れているの?


 自分に問い掛けるが、答えは見付からない。


 今さら後には引けないでしょう?


 自分に説得を試みるが、気持ちは前を向いてくれない。

 顔を上げることすらできない自分に向かって、私は言った。


「あの時だって、うまくやれたじゃない」


 そう、あの時だって……。




「これは、仕事に忠誠を示すための儀式だと思って頂ければ結構です」


 私の言葉に、男は目を丸くした。


「もう二度と同じ失敗を繰り返さない。その決意を心に刻むために、私の意思で行うことなのです」


 普通なら、頭のおかしな女だと気味悪がられていたのではないだろうか。あるいは、懇々と説教をされた上で、冷たく追い払われていたかもしれない。

 だが、男はそれをしなかった。

 欲求不満だったのか、それともストレスが溜まっていたのか。男は、言い訳めいたことをつぶやきながら、私の肩に手を置き、そして、私の体を引き寄せた。




「私は、とっくの昔に壊れているのよ」


 急速に心が冷めていった。鼓動がもとに戻っていく。

 上司の顔を思い浮かべながら、私は顔を上げた。


「やってやるわよ!」


 シャワーから出ると、私は用意していた服を着た。髪を乾かし、化粧を終えたところで夕食の材料が届いたので、区画を仕切る扉までそれを受け取りに行く。

 荷物を持って来てくれた自衛官の視線が私の胸元に注がれるのを無視して、私はにっこりと微笑んだ。


「いつもありがとうございます」

「い、いえ!」


 慌てる自衛官にもう一度微笑んで、私は扉を閉めた。


 キッチンで下準備をしていると、対象者が起きてきた。


「ちょっと寝過ぎました」


 あくびをしていた対象者が、不自然に私から目をそらす。


「えっと、着替えたんですね」


 とってつけたような言葉に、私は平然と返した。


「掃除をしていたら、汗をかいてしまって。シャワーを浴びたらさっぱりしました」

「そう、ですか」

「今夜は手巻き寿司にしようと思うのですが、準備を手伝っていただいてもいいですか?」

「はいっ。あ、ちょっと顔を洗ってきます」


 洗面所へと向かう対象者を見ながら、私は表情を引き締めた。


 食事の間、私は笑顔を絶やさないようにした。対象者の視線が私の胸元に向きがちなのを意識しないようにしながら、なるべく親しげに振る舞う。

 最初は気まずそうにしていた対象者も、食事が進むにつれて少しずつ笑顔が増えていった。

 具を入れ過ぎて不格好になった海苔巻きを笑ったり、互いにお寿司を作り合って出来を比べたり。

 手巻き寿司は、予想通り夕飯を大いに盛り上げてくれた。今日の夕飯は、六日間で一番笑顔溢れる時間だったと思う。


 食べ終わった対象者が、イスにもたれながら言う。


「お腹いっぱいです。美味しかった!」

「よかったです。またやりましょうね」

「はい!」


 幸せそうなその顔を見ていると、私も幸せな気持ちになった。

 対象者は、何を食べても美味しいと言ってくれる。そういう態度を不満に思う人も、もしかしたらいるのかもしれない。

 だけど、私は思うのだ。


 美味しそうに食べてもらうと、すごく嬉しい


 食器をキッチンへ運びながら、私は考える。


 明日の夕飯は何にしよう


 考えながら、私は微笑む。


 今日みたいに、二人で楽しめる食事がいいな


 直後、私の顔から笑顔が消えた。


 何を考えているの、私は


 今日は勝負の日なのだ。呑気なことを考えている場合ではない。

 その時、後ろで立ち上がる気配がした。


「片付け、僕も手伝います」


 振り向いた私が、笑顔で答えた。


「ありがとうございます」


 そう返事をして、私は自分に驚く。

 言葉も表情も、計算してのものではなかった。それは、とても素直な反応。

 対象者と並んで洗い物をしながら、私は混乱していた。


 何を考えているの、私は


 隣で食器を拭く対象者をちらりと見て、私は慌てて手元に視線を戻した。



 食器を片付け終えると、対象者はお風呂に向かう。対象者を待つ間、私はダイニングテーブルで料理本を広げた。

 明日の朝食はもう決めてある。しらすと青ネギのオムレツ、ナスの煮浸し、ひじきの煮物、ご飯と、ナスのお味噌汁だ。昼食は、きのこのスープパスタ。レトルトではなく、一から自分で作るつもりだ。材料もすでに揃っている。手巻き寿司の材料と一緒に頼んでおいた。


「問題は晩ご飯よね」


 ページをめくりながら、しかし私は全然違うことを考えていた。


 今夜も対象者を誘って映画鑑賞の予定だ。今夜の作品は、恋愛物。対象者が好んで観る映画ではないと思う。それでも、私がお願いすれば、きっと一緒に観てくれるはず。今日の映画も”予習”は済んでいる。作戦は完璧だ。

 今夜こそ、私は一歩も引くつもりはない。

 今日は六日目。試練の日まであと四日。

 私が対象者なら、とても平静ではいられない。下手をすると、死を選ぶかもしれない。それは絶対にさせてはならないのだ。

 対象者を一人にしてはいけない。それは眠る時も同じだ。


「やるしかないのよ」


 つぶやいた私は、手に冷たい汗を掻いていることに気付く。


「怯むな、私!」


 昼間と同じ言葉を自分に投げて、私は料理本をパタリと閉じた。


 対象者がお風呂から出た気配を感じると、自分の寝室に料理本を隠してからリビングに戻った。

 対象者がドライヤーを使う音がする。それが終わればリビングに戻ってくるはずだ。

 ところが、ドライヤーの音が消えてもなかなか対象者は戻ってこなかった。アイスコーヒーの準備をして待つ私は、じりじりしながらその時間を耐える。

 やがて、対象者がリビングに現れた。

 そして。


「今日はお腹いっぱいで、もの凄く眠いです。すみません、このまま寝かせてもらいますね」


 唖然とする私を置き去りにして、対象者はさっさと自分の寝室に入ってしまった。

 しんと静まり返ったリビングで、私は呆然とつぶやいた。


「どうして……」

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