五日目
今日の朝食は、小松菜とさつま揚げの炒め物、冷や奴のオクラと鰹節のせ、納豆のしらすのせ、そして松茸の炊き込みご飯と小松菜の味噌汁にしてみた。
本当は焼き魚を加えたかったのだが、冷蔵庫の中には鮭しかなく、それでは昨日と同じになってしまうのでやめた。
炊き込みご飯は、お米と混ぜて炊くだけの”素”を使ったので、手間は掛かっていない。にも関わらず、対象者は朝から豪華だと喜んでいた。
対象者を検診に送り出すと、定例の報告会だ。昨日に続いて今日も穏やかに進んでいく。だが、それは私にとって良いことではない。
私は、サポートチームにはっきりと伝えた。
私に気を遣わなくて結構です
厳しく指摘をお願いします
そう送ったら、しばらく誰からも返事がなかった。今回に限っては、ビデオチャットだったら面白かったかもしれない。
報告会が終わると、私は掃除を始めた。私と対象者の寝室から始まり、リビング、ダイニング、そしてキッチン。どの場所も手は抜けない。特にキッチンは、対象者と一緒に料理することを考えるとピカピカにしておかなければならなかった。
本当は掃除をしている間に洗濯ができるといいのだが、ここにある洗濯機は乾燥機と一体型。朝、対象者がパンツを放り込んで検診に行ってしまうので、戻ってくるまで何もできないのだ。
午前中には乾燥を含めて終わっているので、使おうと思えば使えるのだが、取り出したパンツをそこいらに放置しておく訳にもいかず、ましてやきれいに畳んでおくこともできない。そんなことをしたら、せっかく良くなってきた雰囲気がまた気まずくなってしまう。早くパンツを託してもらえる関係にならなければならない。
今日の昼食はもう決めてあった。料理本に載っていた野菜たっぷりラーメンだ。簡単お手軽、栄養バランスもいい。料理本バンザイだ。
献立決めに脳のリソースを割く必要のなくなった私は、洗面所で雑巾を洗い終えると、乾燥機の中のパンツを見ながらこの五日間のことを振り返っていた。
ミスはしたが、対象者との関係構築は比較的うまくいっている。現状を維持するだけなら、残りの日数も問題なく過ごせるだろう。
しかし、それではいけないのだ。
試練の日が近付くにつれて、対象者は不安定になっていくはずだ。穏やかな日常は、考える時間をたっぷり与えてくれる。それは良くない。
対象者の思考を試練からそらさなければならない。たとえ一時的であっても、試練のことを考えなくて済む時間を作っていく必要がある。
「もう少し踏み込まきゃいけないってことよね」
対象者のパンツを睨み付け、私は拳を握った。
昼食の野菜ラーメンは好評だった。
スープをすべて飲み干した対象者が、私に言う。
「先生の指導で、トレーニングの後はプロテインを飲んでいるんですけど、僕はああいうの、ちょっと苦手で」
対象者が苦笑いする。
「どうせ栄養を取るなら、食事から取りたいって思ってしまうんです」
そして、満足そうに箸を置きながら、私に向かって言った。
「それに、島崎さんが作ってくれる料理には、栄養素とは違う別のエネルギーが入っている気がするんです。だから、それだけで元気になれるような気がして」
あまりに自然に言われて、私が目を丸くする。
驚く私を見て、対象者が目を伏せた。
「あ、すみません、変なこと言っちゃって」
そう言うと、ごちそうさまでしたと言いながら、自分で食器をキッチンまで下げにいった。
医師の指導でトレーニングをしているのだ。運動の後にプロテインを飲むというのはあり得ることだった。だが、私はそれを知らなかったし、そんなこと考えもしなかった。
運動の後にタンパク質を摂る方が良いことは、何となく知っていた。では、私は対象者のために栄養を考えて食事を作っていただろうか。今日の昼食は、本当に栄養バランスがいいと言えるのだろうか。
島崎さんが作ってくれる料理には、栄養素とは違う別のエネルギーが入っている気がするんです
対象者は、計算してお世辞が言える人ではない。
それはおそらく、とても素直な思い。
胸の中で、対象者の言葉が繰り返し再生される。
美味しそうにご飯を食べる顔が浮かんでくる。
キッチンから戻ってきた対象者に、私が言った。
「コーヒー、入れてきますね」
唐突に立ち上がった私の行動は不自然だっただろうか。対象者がどう思ったのか、それを確かめるすべはない。
私は、対象者の顔を見ることなくキッチンに向かって歩いていった。
私の父は最低の男だった。酒、ギャンブル、女、そして暴力。母にはもちろん、小さかった私にさえ容赦なく手を上げた。
どこに勤めてもすぐクビになるし、たまに稼いだ金は全部自分で使ってしまう。父のかわりに、母がパートで家計を支えていた。とは言え、パートの収入などたかが知れている。私の家は、私が生まれた時からずっと貧乏だった。
そんな父が死んだのは、私が小学校四年生の冬。酔っ払って用水路に落ち、そのまま凍死した。実の父が死んだというのに、私は心の底からホッとしたことを覚えている。
だが、母は違ったようだ。あんな男にすら愛情があったのだろうか。母が立ち直るのに、季節が一つ過ぎるくらいは必要だったように思う。
どうにか落ち着いた母は、新しい仕事についた。それは、夜の仕事。詳しい話はしてくれなかったが、母の化粧が濃くなり、髪の色が変わり、そして、あまり家に帰ってこなくなったことだけは確かだった。
私は、母が置いていく小遣いで食事を済ませた。母がいつ帰ってくるか分からなかったので、節約のために、スーパーで半額になったおにぎりを一個だけ買って夕飯にすることも珍しくなかった。貧乏なのは変わらなかったが、家族のあり方は変わっていった。
そんな環境にいた割に、私は真っ直ぐ育ったと思う。それは、私がある一点だけを目指して生きてきたからにほかならない。
中学生になってすぐ、私は担任の先生に聞いた。
「この国で、一番クビになりにくい仕事って何ですか?」
目を見張りながら、先生が答えた。
「たぶん、公務員だと思います」
「公務員って何ですか?」
「公務員っていうのは……」
先生の説明を聞いた私は、さらに質問する。
「公務員の中で、一番給料がもらえるのは何ですか?」
やっぱり目を見開きながら、先生が言った。
「いくつかあるとは思いますが、たとえば、官庁に勤める官僚とかかもしれませんね」
私は、学校のパソコンを使って、官僚とは何なのかを徹底的に調べた。先生に何度も質問して、官僚になるための方法と、その中でもより高い地位につく方法を確認していった。
そして私は、官僚になることを決めた。
その日から私は猛勉強を始めた。官僚になるため、そしてさらに高い地位につくためには、レベルの高い大学を卒業しなければならない。大学進学にはお金が必要だが、成績優秀な生徒には、少ないながらも返還不要の奨学金が出る。足りない分は借りればよい。貧乏な私でも進学は可能なはずだ。
中学の三年間、部活も友達作りもすることなく私は勉強した。そして、通える範囲でもっともレベルの高い公立高校に入学する。
高校の三年間は、勉強に加えてアルバイトもした。大学受験と、その先の大学生活にお金が掛かることが分かっていたからだ。
勉強とアルバイトの日々の中で、母の顔を見たのは何回あっただろうか。その頃、母と会話を交わすことはほとんどなくなっていた。ボロアパートの家賃と最低限の生活費、そして私が高校に行くための費用さえ出してくれれば、母と話をする必要など感じなかった。
努力の甲斐あって、私は国公立でもトップクラスの大学に合格できた。
大学は東京にあった。地方の貧乏人が住むには厳しい土地。だが、そんなことは織り込み済みだ。大学の学生宿舎に入ることは決まっていたし、最初の数ヶ月をしのげる程度のお金は用意してあった。
母に東京に行くことを伝え、申し訳程度の餞別を受け取って、私は家を出た。
大学に入ってからは、勉強とアルバイトに加えて、人間関係の構築に時間を割いた。官僚になった後に必要な人脈作りのためだ。
私に友達はいなかった。だから私は、人と関係を持つための方法を本やネットで調べた。最初のうちは試行錯誤だったが、私は意外なほどあっさり”友人”を手に入れることができた。
大学生活の中で、一つ知ったことがある。それは、私の容姿が男好きのするものだったということだ。何度か男から告白されるに至り、それを知ったのだった。
そう言えば、母も周りの人からきれいだと言われていた気がする。私は母に似ているらしいので、それを受け継いだのだろう。
私は、交際の申し込みをすべて断った。当然だ。私は、恋愛や結婚になんてこれっぽっちも興味がなかったのだから。
やがて、公務員試験の日がやってきた。
中学生の頃から準備をしていた私にとって、試験自体は何の問題もなかった。官庁訪問も面接も、シミュレーション通り完璧にこなせたと思う。
母子家庭や貧困家庭の子供は不利だという噂もあったが、私は見事に合格した。私は、念願の霞ヶ関で働き始めたのだった。
仕事は順調だった。だが、ある日私は大きな失敗をしてしまう。それは、私のキャリアにとって致命的とも思える失敗だった。
だから私は……。
「島崎さん」
「ひゃい!」
突然呼ばれて、私は妙な返事をしてしまった。
鏡の中の自分から視線を外して横を向くと、対象者が心配そうに私を見ている。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です!」
完全に気が抜けていた。間抜けな声を上げてしまった自分に、頬がかぁっと熱くなる。
「お風呂掃除、僕がしましょうか?」
「いえ、本当に大丈夫です。ちょっとぼおっとしていただけですから」
無理矢理私が笑う。
「本当に無理はしないでくださいね」
「ありがとうございます。すみません、気を遣わせてしまって」
対象者はまだ何か言いたげだったが、それ以上は何も言わずに顔を引っ込めた。
どうして急に昔のことなんか……
スポンジをギュッと握り締めて、私は掃除を再開した。
夕食は、豚バラ肉と白菜のミルフィーユ鍋にした。食事にあまり興味のない私が、テレビを見ていて気になった数少ない料理の一つだ。
料理本を見たら作り方も簡単だったし、対象者と一緒に準備もできる。そして何より切るものが少ない。せっかく外すことのできた対象者の絆創膏が復活する可能性も低かった。
加えて、私には鍋にしたもう一つの理由があった。
気になる人と鍋をつつけば、一気に距離が縮まるかも!?
料理本に書いてあった一文。
くだらないと思いながらも、私はそれを読んで鍋にすることを決めたのだった。
今夜、対象者との距離を縮める
一緒に過ごすようになって五日目。対象者は、少なからず私に興味を持っているように見えるが、積極的に近付くことはしてこない。ならば私から近付くしかない。
土鍋を用意しながら、私は強く決意していた。
どうやら対象者もミルフィーユ鍋は初めてだったらしい。作っている時も食べている時も、対象者はとても楽しそうだった。
対象者はお酒を飲まない。飲むとすぐ眠くなってしまうそうだ。
私もお酒は苦手だった。飲んで暴れる父の記憶が、お酒の味を苦くする。仕事のためなら飲み会にも参加したし、付き合い程度に飲むこともあったが、一人では決して飲むことはなかった。
夕飯が終わると、対象者はいつもお風呂に入る。トレーニングの後にもシャワーを浴びているのだが、夜はゆっくり湯船に浸かっているようだ。
「ここのお風呂、大きくて好きなんです」
対象者の住む独身寮は、普通の民間アパートを借り上げたものだ。お風呂の広さは、私の住んでいるワンルームマンションと大差ないだろう。
それと比べたら、ここのお風呂は確かに広かった。
お風呂から出ると、対象者はいつもリビングでくつろいでいる。その間に、私がお風呂に入るのが常だった。事実上、この時間帯から二人の会話はほとんどなくなる。私はお風呂上がりに肌の手入れやストレッチがしたかったし、寝室でドレッサーに向かう私に対象者が話し掛けることなどあるはずがない。
やることを済ませた私は一旦リビングに戻るが、寝間着の上にガウンを羽織った私を、対象者がまともに見ることはなかった。何となくそれぞれが時間を過ごし、時間になれば”おやすみなさい”と言ってその日が終わるのだ。
しかし、今日はそのパターンを変えなければならない。
お風呂から出てきた対象者に、私が言った。
「工藤さん。もしよかったら、一緒に映画を見ませんか?」
唐突な誘いに対象者が目を丸くしている。
自分の言葉がどれほど不自然かなど百も承知だ。だが、二人が自然に寄り添えるようになるまで待つ余裕はない。不自然でも強引でも、私は対象者との距離を縮めなければならないのだ。
「子供の頃に見て面白いと思ったんですけど、途中ちょっと怖いシーンがあって。だから、一緒に見て頂けたら嬉しいのですが」
パッケージを見せながら、上目遣いで対象者を見る。
「ああ、それ、僕も見たことあります。確かに少し怖いシーンがありましたね」
ミステリーアドベンチャーに分類されるその映画は、見たことのない人でもタイトルくらいは知っているという有名な作品だ。
その作品を私が見たのは、子供の頃ではなく、じつは今日のお昼前。しかも、ほとんどのシーンを早送りで飛ばしながらだった。
「一緒に、いいですか?」
もう一度私が聞く。
「……いいですよ」
やや間を空けて対象者が答えた。
「ありがとうございます! じゃあソファで待っていてください。飲み物を用意してきますので」
私の嬉しそうな顔を見て、対象者も笑った。その笑みには戸惑いがあったが、それを無視して私は飲み物の用意を始めた。
並んでソファに座る二人の距離は、三十センチくらい。この距離を少しずつ詰めていく作戦だ。
部屋を少し暗くしてから、私は再生ボタンを押した。
動き出した映像を、私が前のめりで見る。飲み物を取る時に腰を浮かせ、戻る時に少し距離を詰める。あらかじめ見付けておいたポイントのシーンで、驚いた私が対象者の腕や足に触れる。クライマックスを迎える頃には、私と対象者の距離はゼロになっていた。二人の肩は完全に触れ、映画に夢中になった私が対象者の膝の上に手を置き、やがて対象者の手を握る。エンディングは、主役の二人のキスシーン。私はうっとりと対象者にもたれ掛かった。
映画が終わり、エンドロールが流れはじめても、私はそのままの姿勢でいた。
「あの、島崎さん」
答えるかわりに、私は手に力を込める。
「いつまでも、こうしていられたらいいのに」
そう言って、私は対象者を見た。
すぐ目の前で、大きな瞳が揺れている。唇が何かを言い掛け、固く結ばれる。私の手の中で、大きな手が強く握られた。
やがて。
「本当にそうですよね」
対象者が、寂しそうに笑った。
「島崎さんと映画が見られてよかったです」
対象者が、私の手から逃げていく。
「カップは僕が洗っておきます。島崎さんはお風呂に入ってきて下さい。もうそれなりの時間ですし」
立ち上がる対象者に、私が言った。
「私も、工藤さんと映画が見られてよかったです」
その声は、自分のものではないようだった。
「お言葉に甘えて、お風呂に入ってきます」
立ち上がった私は、その時どんな顔をしていただろうか。寝室に着替えを取りに行く時も、お風呂場に向かう時も、私は対象者を見ることができなかった。
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