四日目
翌朝は、焼いた鮭に卵焼き、ほうれん草のおひたしと、ご飯とじゃがいものお味噌汁にした。特にリクエストを聞いた訳ではなかったのだが、何となく和食がよさそうな気がしたのだ。対象者は、それを美味しそうに食べていた。
朝食を無事に乗り越え、対象者を検診へ送り出すと、私は定例の報告会に臨んだ。一日の中で最も気が重い時間。今日も私は、”申し訳ございません”を連発することを覚悟していた。
ところが、この日の報告会はとても穏やかだった。それどころか、私へのねぎらいの言葉まで出てくる始末。あの辛口栄養士でさえ何も言ってこなかった。
きっと、童顔ショートヘアがサポートチームに何か言ったのだろう。ありがたい話だが、悔しくもある。
私は有能であることを示さなければならないのだ。ほかの誰にもできないことをやってのけ、評価を勝ち取らなければならない。サポートチームに気を遣わせるなどあってはならないのだ。
報告会はあっさり終了したが、私の気持ちはモヤモヤしたままだった。
報告会が短かったおかげで、午前の家事が早く終わった。ダイニングテーブルでコーヒーを飲みながら、私がつぶやく。
「お昼ご飯は、昨日の残りのカレーを使ってカレーうどん。夜は……何にしよう」
ここに来てから、一日のほとんどを献立決めとご飯作りに費やしている気がする。世の中の主婦というのは、いつもこんな感じなのだろうか。
いや、主婦の方がきっと何倍も大変だ。なぜなら、私は買い物に行く必要がないのだから。
料理の材料を含めて、必要なものがある時は”内線”を使って頼めばよかった。受話器を取れば、ワンコールもしないでスタッフが出てくれる。必要なものを伝えれば、半日以内にそれを届けてくれた。
この内線は対象者も使っている。昨日は、握力を鍛えるためのハンドグリップを頼んでいた。
「今夜も一緒に作った方がいいのかな?」
今朝、キッチンの引き出しにピーラーがあることに気が付いた。皮を剥くのにこれを使ってもらえばよかったと、今さらながら後悔する。
とは言え、今後も手伝いを頼むのなら包丁は避けて通れない。少しずつでも包丁に慣れてもらった方がいいだろう。そうすると、まずは手始めに……。
などと考え出すと、ますます献立決めが難しくなる。
そもそも私の料理のレパートリーが少ない上に、これまで食事に時間を掛ける余裕がなかったこともあって、食事そのものに興味を持つことがなかった。私の脳内には、献立を考えるための神経ネットワークが構築されていないのだ。
「困った」
イスに背を預けて私は天井を見上げる。
困ったと言えば、私の中で、朝からずっとモヤモヤしていることがあった。
対象者は、間違いなく私とのことを心理カウンセラーに相談している。あのカウンセラーがここにいる本来の意味は、対象者の恐怖を和らげ、心を落ち着かせて試練に立ち向かわせることにある。それなのに、私のせいでつまらない相談に乗ることになってしまった。
きっと、私の愚かさに呆れていることだろう。
そう思うと、私は何だかいたたまれなくなった。
「とりあえず、謝ってこよう」
私は、カウンセラーに会うために部屋を出た。
この時間、対象者はトレーニングルームにいるはずだ。トレーニングの指導は、スポーツドクターでもある専属の医師が行っている。それが終わるまで、カウンセラーは待機しているはずだった。
医務室兼カウンセリング室の扉の前で、私は深呼吸する。そして、ちょっと強めにノックをした。
「島崎です。入ってもよろしいでしょうか」
「島崎さん? どうぞ」
少し驚いたような声がした。
「失礼します」
扉を開けると、パソコンに向かっていたカウンセラーが、キーボードから手を外してこちらを向いた。
ゆったりめのパンツに白のカットソー。上には淡いピンクのカーディガンをふわりと羽織っている。童顔ショートヘアと相まって、その見た目はとても可愛らしい。
年齢もキャリアも私より上のはずなのだが、それをまったく感じさせない不思議な人だった。
「お忙しいところ申し訳ありません。あの、今お時間を頂くことはできますでしょうか」
伏し目がちに言う私の言葉に、カウンセラーが笑って答えた。
「大丈夫ですよ」
「すみません」
頭を下げて、私は部屋に入った。
カウンセラーが入れてくれたコーヒーを一口飲み、それをそっと置いて、私は話し始めた。
「たぶん、なんですけど、対象者から、私との向き合い方について、相談されていますよね」
カウンセラーが、ゆっくりとカップを口許に運ぶ。
「対象者がどう話したのか分かりませんが、気まずくなってしまったのは、完全に私のミスなんです。つまらないことにお時間を取らせてしまって申し訳ありませんでした」
私は深く頭を下げた。
「もうあんなミスはしないようにしますし、対象者に気を遣わせることもさせないようにします。それと、先生にもこれ以上ご迷惑を……」
カチャン
ふいに強い音がした。
カップをソーサーに置いたカウンセラーが、テーブルの上で両手を組む。
「立場上、私が彼とどんな話をしているのか、お答えすることはできません。だから、あなたの話にきちんと答えることもできない」
柔らかくもはっきりと彼女が言う。
「だから、今から言うことは、ただの独り言」
独り言と言いながら、私の目を真っ直ぐに見た。
「彼は、自分のことより他人のことを優先してしまう人だわ。それで損することもたくさんあると思うけれど、彼はそれを悪いことだと思っていないと思う」
目を見開く私に、彼女が続ける。
「あの人はね、いい人なのよ。自分よりも周りが大事。だからこそ、過酷な試練を前にしても心の平穏が保てているのかもしれないわ」
いい人
概念としては分かる。
でも、それは私にとって縁のない言葉だった。
「あの人は、あなたのことを気に掛けているわ。あなたを人として見ている。だからね、あなたも、あの人のことを”対象者”だなんて考えない方がいいと思う」
私はカウンセラーから目をそらした。
チクリと刺された小さな針が、やけに不快だった。
「難しい仕事を任されて大変だとは思うけど、もっと肩の力を抜いた方がいいんじゃないかしら」
また、痛みが走った。
その痛みが、私の中の何かを刺激した。
「私は、肩の力を抜くことなんて許されないんです」
顔を上げて、私が言った。
「気を抜けば追い越される。失敗すれば置いて行かれる。そんな世界に私はいるんです」
カウンセラーの顔が強張るのが分かったが、走り出した言葉は止まらなかった。
「私が上司に、何て言われてここに来たか分かりますか? 対象者に試練を受けさせるためなら、私の体を使えと言われたんです。私が生きる世界っていうのは、そういう世界なんですよ」
私の口から言わなくても、おそらくカウンセラーは知っている。私がここにやってきた意味も、その役割も。
だからこそ。
「私が失敗すれば、人類が侵略者たちの奴隷になるんです。肩の力を抜けとおっしゃいましたが、そんなことができると思っているんですか? 私が失敗したら、いったいどうするつもりなんですか?」
カウンセラーがうつむいた。そして、か細い声で言う。
「ごめんなさい。私は、あなたにひどいことを言ってしまったのね」
その姿を見て、私はそれ以上の言葉を飲み込んだ。
目を閉じて心を落ち着かせる。
明らかに言い過ぎた。
私は、また失敗したのだ。
「すみません、今日は失礼します」
それだけ言うと、私は部屋を出た。
後ろ手に閉めた扉に背を預けて、私は涙を拭った。
カレーうどんを食べ終えた対象者が満足そうに笑う。
「二日目のカレーは美味しいって言いますけど、本当ですね」
食器を下げながら、私が答える。
「工藤さんが一緒に作ってくれたからですよ」
「いやあ、僕なんて全然役に立たなかったですし」
「そんなことありません。私は、工藤さんと一緒に料理ができて楽しかったですよ」
ちらりと見ると、対象者が頬を染めているのが分かった。
「夜は手作りハンバーグにしようと思っているのですが、また手伝っていただいてもいいでしょうか」
「もちろんです!」
嬉しそうな顔に微笑みを返して、私は食器を洗い始めた。
これ以上ミスを重ねることは許されない。
対象者がカウンセラーに相談するような事態を、二度と引き起こしてはいけない。
私は強くそう思った。
だから、積極的に対象者と話をするようにした。二人の距離を縮めて、対象者の心を掴まなければならない。
心を掴むには、まず胃袋から。私は内線を使って、ハンバーグの材料と一緒に料理の本を数冊頼んだ。普通ならレシピくらいネットで調べられるのだろうが、対象者同様、今は私も外部から遮断されている。
「なるべく急いでください」
そんなこと言わなくても最速で届けてくれるのだが、私は強い声で受話器の向こうに言った。
対象者が読書と昼寝をしている間、私は一生懸命掃除と洗濯をした。
対象者の洗濯物は、下着以外は私に預けてくれた。下着は、対象者が午前中に自分で洗っている。
対象者はトレーニングの後にシャワーを浴びるので、夜のお風呂と合わせて二回着替える。つまり、対象者が洗うのはパンツが二枚だ。
この区画は、完全に外と遮断されていて窓がない。洗濯物は、基本的に乾燥機で乾かすことになる。
乾燥機の中を、二枚のパンツがクルクル回っているのを見た時には何だか笑ってしまった。そのシュールな光景を見ないようにするためにも、下着を託してくれるまで頑張らなければならない。
ちなみに、対象者の寝室の掃除は私がしているが、対象者からは、タンスやクローゼットには手を出さなくていいと言われている。将来私に子供ができて、それが男の子だった時には同じようなことを言われるのだろうか。
夕方前には、頼んでいた料理本とハンバーグの材料が届いた。届いた物は、区画を仕切る扉まで取りにいく必要がある。ちょうど目を覚ました対象者が取りに行くと言ってくれたのだが、私は自分で行った。料理本のことを知られたくなかったからだ。
料理本を自分の寝室に隠し、材料をキッチンのカウンターに並べ終えると、私は対象者に声を掛けた。
「工藤さん、お願いします」
「分かりました!」
ハンバーグなんて学校の家庭科で作ったくらいなので、私もレシピはあやふやだった。それでも、知ったかぶりをして対象者に教えながら、二人で準備を進めていく。
少し迷ったのだが、やる気を見せる対象者の顔を見て、今日も包丁を使う仕事をしてもらった。皮剥きは危険なので、玉ねぎのみじん切りをお願いする。
付け合わせのジャガイモと人参の皮剥きは、私がした。当然ピーラーは使わなかった。
皮を剥く私の隣で、対象者が玉ねぎを切っている。止まらない涙に苦戦してはいるが、包丁の扱いに慣れてきたのか、対象者は意外なほどあっさりと玉ねぎをみじん切りにしてみせた。
「お上手ですね」
「いやあ、そんなことないです」
恥ずかしそうに笑う対象者は、とても楽しそうだった。
夕飯作りはなかなかうまくいったと思う。はねる油に大騒ぎをしたり、不揃いなハンバーグを見て笑ったり。
夕飯を食べながら、私は対象者とたくさん話をした。特に、お互いの仕事のことでは大いに盛り上がった。本当は対象者の家族や幼い頃の話も聞きたかったのだが、それらに触れることを対象者が避けているように思えた。
本音を言えば、それはありがたいことだ。家族や子供の頃のことなんて、私は思い出したくもなかったから。
寝る前に、次の日の朝食は和食がいいと言われて私は微笑む。今後の朝食は和食で決定だ。
その夜、私は料理本を必死に読み込んだ。こんなに集中したのは、公務員試験の勉強をした時以来かもしれない。おかげで寝不足にはなったが、あの童顔ショートヘアを思い出す余裕がなかったことは、私にとって幸いだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます