三日目

 昨日の晩ご飯は、野菜炒めと冷や奴、野菜スティック、ご飯と玉ねぎの味噌汁だった。

 動揺で頭が回らなかったので、とにかく野菜を入れることだけを考えた。


 夕飯の時、私は対象者に謝った。

 対象者は笑って許してくれたが、その笑顔は少し寂しそうだった。


 その夜私は、今朝よりも早い時刻に目覚ましをセットし、それを二回確認してからベッドに潜った。

 ここでミスを重ねてはいけない。寝坊など絶対にあってはならない。

 そんなことを思っていたからか、その夜も私は寝付きが悪かった。


 翌朝私は、目覚ましよりも早く起きて朝の支度に取り掛かった。

 朝食は、あじの干物、ハムと野菜のサラダ、きゅうりと大根の漬物、ご飯、キャベツの味噌汁だ。

 それを用意しながら、昨夜の会話を思い出して、私はまた唇を噛む。


「明日の朝食は何がいいですか?」

「えっと、何でもいいです」


 対象者に”何でもいい”と言わせてしまったのは、どう考えても私のせいだ。対象者が気を遣った結果に違いない。朝食の時も、どことなく気まずい雰囲気が漂っていた。


 朝食を終えると、対象者は検診へと向かった。それを見送って、私は憂鬱な気分で報告会に臨む。

 予想通り、サポートチームからは大いに叱責された。


 気を緩めるな

 対象者に気を遣わせるな


 栄養士からもダメ出しされた。


 料理に手を抜き過ぎです


 チャット中、私は”申し訳ございません”という言葉を十回以上は打ったと思う。ビデオチャットでなくて本当に良かったと思った。



 昼食は、レタスときゅうり、そしてトマトをどっさり挟んだサンドイッチにした。また手抜きと言われる気はしたが、昼食については勘弁してほしい。時間がなさ過ぎる。

 目の前に座る対象者は、今日も美味しいと言ってそれを頬張っていた。きっと対象者は、何を作っても美味しいと言ってくれるのだろう。この人は、そういう人なのだ。

 でも、それではいけない。それは対象者に気を遣わせていることになる。


 本当に好きなものを知らなければならない


 そんなことを考えていた私に、対象者が声を掛けてきた。


「島崎さん」


 食後のコーヒーを飲み終えた対象者が、緊張した様子で私を見ている。


「その、お願いがあるのですが」

「何でしょう?」


 私が探るように対象者を見る。


「じつは、ここに来てから、僕はちょっと時間を持て余してまして……。なので、その、もし良かったら、今日の晩ご飯を作るのを、僕に手伝わせていただけないでしょうか」


 勇気を振り絞るように対象者が言った。

 何だか台本を読んでいるような印象だ。誰かに言わされている感じがする。


 ああ、心理カウンセラーにアドバイスされたのね


 童顔でショートヘアの、柔らかオーラを身にまとった女性カウンセラーの顔を思い浮かべる。おそらく対象者は、昨日の事を彼女に相談したのだろう。

 正直言って悔しかった。もっと言うと、カウンセラーのことを鬱陶しくさえ思った。

 だが、ここで私が申し出を断れば、対象者は落ち込んでしまうだろう。

 ならば私の答えは決まっている。


「ありがとうございます。助かります」


 私が答えた。


「すみません、無理を言って」


 対象者が、ホッとしたように笑った。


「教えていただければ何でもやりますので、何でもおっしゃってください」


 そう言って対象者が姿勢を正す。真剣な表情で私を見つめる。

 その姿を見て、私の気持ちが少し緩んだ。

 料理を手伝うというアイデアも、セリフを考えたのもカウンセラーなのかもしれない。そうだとしても、私とうまくやりたいと願うその気持ちに嘘はないのだろう。

 そっと息を吐き出し、体の力を抜いて私が言う。


「じゃあ、今夜はお願いします。ただ、私は料理が上手ではないので、お教えするほどのことは……」

「そんなことありません!」


 大きな声がした。


「僕なんて、ご飯を炊くとか麺を茹でるとか、そんなことしかできないんです。それに比べたら、島崎さんの料理はちゃんと料理になっています」


 対象者が身を乗り出す。


「島崎さんの料理は本当に美味しいです。だけど、もし一緒に作ることができたら、もっと美味しくなると思うんです!」


 それは”セリフ”ではない。

 それは、間違いなく対象者自身の言葉。


 私は思わず微笑んだ。

 直後、私の心に影が差す。


 関係修復のきっかけを、対象者に作らせてしまった


 落ちていく視線を無理矢理上げて、なるべく自然に私が言う。


「ありがとうございます。改めて、今夜はよろしくお願いしますね」

「こちらこそ!」


 対象者が笑った。


「どんなものが食べたいですか?」

「そうですねぇ」


 会話を交わしながら、私は、テーブルの下で拳を握った。



 晩ご飯はカレーライスに決まった。市販のルーを使った、豚肉とジャガイモと人参と玉ねぎだけの、子供でも作れそうなカレーだ。対象者のためにそうしたのではない。私がそれしか作れなかっただけだ。

 勇んでキッチンに立った対象者は、しかし本人が言った通り、本当に料理ができなかった。

 ジャガイモの皮剥きをお願いしたら、芽を取る必要がなくなるほどジャガイモが小さくなった。人参の皮を剥いている時に指を切った。絆創膏を巻いた指で再チャレンジして、別の場所を切った。包丁は無理だと思ったので、対象者には煮込んでいる時のアク取りに専念してもらうことにした。

 間違いなく私一人の方が気楽で、しかも早い。だが、キッチンに立っている対象者は、結構料理を楽しんでいるようだった。

 完成したカレーをご飯に盛り付け、私が得意とする野菜スティックと一緒にテーブルに並べると、二人で向かい合う。


「いただきます!」


 嬉しそうな対象者の顔を見て、私は、ほんの少しだけカウンセラーに感謝した。

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