二日目

「おはようございます」

「あ、おはようございます」


 笑顔の私に、対象者が眠そうな顔で返事をする。


「朝ご飯、すぐ召し上がりますか?」

「はい、顔を洗ったらいただきます」

「分かりました」


 もう一度笑って、私はお味噌汁の鍋を火に掛けた。

 朝食は、昨日残った肉じゃが、卵焼き、納豆、ご飯と、やはり昨日の残りのお味噌汁。


「普段はパンなんですけど、たまには和風の朝食が食べてみたいです」


 そう言う対象者のリクエストに応えてみた。

 本当は私もパンがよかったのだが、ここは我慢だ。さらに言うと、納豆は夜食べる派なのだが、品数を揃えるためには仕方がなかった。ばっちりメイクをしてから朝食を作り始めたら、時間が全然なくなってしまったのだ。明日はもっと早く起きなければならない。

 ちなみに私の服装は、対象者に合わせてジーンズとシャツにした。他人にスーツ以外の姿を見せるのは恥ずかしい気もしたが、きっとそのうち慣れるだろう。


 テーブルについた対象者に私が聞く。


「工藤さん、寝不足ですか?」

「まあ、ちょっとだけ。いろいろ考えてたら、何だか眠れなくて」

「午前中の予定、時間をずらしてもらいましょうか?」

「いえ、大丈夫です。体調は何ともありませんから」


 そう答えると、笑いながら対象者は卵焼きを頬張った。

 対象者と私の寝室は隣り合っている。互いに物音が聞こえることはないのだが、やはり私の存在を意識していたのだろうか。それが普通の男というものだし、意識されなければ逆に大問題だ。大いに気にしてもらいたい。


「この卵焼き、美味しいですね」

「ありがとうございます。でも、お世辞じゃなくて、ちゃんと工藤さんの好みを教えてくださいね。私、頑張りますから」


 対象者の耳たぶが赤くなった。

 何を思ったのかは知らないが、たぶんよい反応だ。


 素直な人だな


 私は、対象者に見えないようにそっと笑った。



 九時前に、専属の医師と心理カウンセラーが訪ねてきた。着任した私に挨拶をしに来てくれたのだ。

 医師は男性、カウンセラーは女性だ。この二人は、毎日午前中に対象者の検診とカウンセリング、そして体力維持のためのトレーニング指導を行うことになっている。

 挨拶が終わると、二人は対象者と一緒に医務室へと向かった。それを見送った私は、急いで自分の寝室に戻ってドアの鍵を締める。そして、鞄の中からノートパソコンを取り出すと、ベッドの下に隠されていたネットワークケーブルを引っ張り出してそれをつないだ。

 今つないでいるネットワークは、この施設内で完結していて、物理的に外部と遮断されている。ネットワークにつながっているのは施設内にある特定の端末のみ。その端末を使うことができるのは、対象者のサポートチームのメンバーだけだ。


 ログインすると、私はサーバ上のファイルを開いて報告書の記入を始めた。

 対象者の様子、得られた情報、提供した食事などを、決められた書式に従って書き入れていく。すべてを書き終えてファイルを保存すると、今度はチャットソフトを起動して、報告完了の連絡をした。

 盗聴を防ぐため、そして対象者に聞かせないために、会話はすべてチャットで行うことになっている。

 しばらく待っていると、サポートチームから返信が来た。

 挨拶から始まり、報告書の内容の確認へと続き、私自身の体調を気遣う言葉をもってチャットは終了した。

 と思ったのだが、最後に栄養士から、食事についてのダメ出しが来た。


 野菜が足りていません

 それから、せめて味噌汁くらいは都度作って下さい


 パソコンの画面を思い切り睨みながら、私はそれに返信をした。


 申し訳ありません。次の食事から気を付けます


 ビデオチャットでなくて本当に良かったと、この時思った。


 報告会が終わると、私は部屋の掃除を始めた。

 掃除機を掛けながら、私がつぶやく。


「お昼ご飯、何にしよう……」


 冷蔵庫やキッチンの収納には、栄養士が選んだ食材があらかじめ数日分用意されていた。足りないものがあれば、すぐに用意してくれるはずだ。

 問題は、料理人の腕と経験が圧倒的に不足していること。


「困った」


 ため息をつきながら、私は掃除を続けた。


 悩みに悩んだその日の昼食は、キノコの和風パスタと、白菜と人参と玉ねぎの野菜スープ、そして野菜スティックとなった。パスタのソースがレトルトになってしまったのは許してほしい。野菜のことばかり考えていたせいで、時間がなくなってしまったのだ。


「すごく美味しいです!」


 嬉しそうにパスタを食べる対象者に、私は何とか笑ってみせた。


 午後は、対象者の自由時間となる。

 お昼ご飯を食べ終えた対象者は、本棚から本を数冊持ってくると、ソファに座って読み始めた。読書が趣味の対象者にとって、この時間は楽しいひとときに違いない。

 もっとも、ほかに何かやれることがあるかと言えば、じつはほとんどないに等しかった。

 この区画内には、テレビもラジオも、パソコンもスマートフォンもない。対象者を外の情報からシャットアウトするための措置なのだが、現代人にとってそれはかなり苦痛なことではないかと思う。

 そのかわり、本棚には大量の本が詰め込まれていた。小説や歴史書、技術書など、対象者が好みそうなものが揃っている。

 対象者はゲームをしないので、ゲーム機の類いはない。だが、大型モニターを含めたホームシアターは完備していて、モニター横の棚にはDVDやブルーレイディスクがこれまた大量に入っていた。

 その棚の一部に、まるで抜き取られたかのようにポッカリ空いた場所がある。おそらくそこには、私に見られたくないジャンルのものがあったのだろう。

 ポッカリ開いた場所は、本棚にもあった。抜き取られたものが今どこにあるのか気になるところだが、それを詮索するのは止めておこう。


 ほんと、可愛いわよね


 対象者の顔を思い浮かべながら、私は笑った。

 直後、近いうちにやってくるであろう出来事が頭をよぎる。


「これは仕事なのよ」


 棚を睨みながら、私は呟いた。



 本を読んでいた対象者は、いつの間にかソファでまどろんでいた。私は、物音を立てないようにお風呂とトイレ、そして洗面所の掃除へと向かう。

 午前中の掃除は、二つの寝室とLDKだけで終わってしまった。この区画内の部屋は、いちいち大きくてかなわない。慣れるまで、掃除は午前と午後に分けるしかないだろう。


 午後は、掃除のほかに洗濯もしなければならなかった。

 シーツや布団カバー、タオル類は毎日新しいものが届くのだが、自分たちの着ているものは自分たちで洗う必要がある。

 洗濯物は、今日のところは私のものだけになった。対象者が、自分のものは自分で洗うと強く言ったからだ。

 まあ、気持ちは分かる。私だって本当はその方が助かる。

 でも、最終的にはそこを打破しなければならない。対象者との距離を縮め、心身共に対象者をサポートしなければならないのだ。


 一通り家事が終わったのは十五時過ぎ。リビングに戻ると、対象者がソファで横になっていた。

 寝室からタオルケットを持ってきて、それをそっと掛ける。それに気付くこともなく、対象者は気持ちよさそうに眠っていた。


「私も、ちょっと寝ちゃおうかな」


 穏やかな寝顔を見ていたら、私も眠気を誘われてしまった。

 昨夜も一昨夜も、いろいろ考えてしまってあまり眠れていない。二日連続の寝不足で、さすがに少し眠かった。


「一時間だけ……」


 横になったら起きられないと思ったので、ハンカチを腕に当て、ダイニングテーブルに突っ伏して私は目を閉じた。


 今日の夕飯は何にしよう


 そんなことを考えているうちに、私はいつの間にか眠っていた。



 ガシャン!


 突然の物音で、私は跳ねるように体を起こした。


「すみません!」


 背中から声がする。

 振り返ると、対象者がキッチンで炊飯器の内釜を持って立っていた。


「お米を研いでおこうと思ったんですけど、ちょっと手がすべっちゃって」


 それを聞いて、私は慌てて腕時計を見た。


 十八時!?


 イスがひっくり返りそうな勢いで私が立ち上がる。


「寝過ぎました! すぐご飯の支度しますね!」


 その時、床にバサリとタオルケットが落ちた。

 対象者が、目を伏せながら言う。


「風邪を引くといけないと思って」


 私が、顔を歪めた。


「本当に申し訳ありませんでした。あとは私がやりますので、工藤さんはリビングでゆっくりしていてください」


 足早にキッチンへ向かうと、対象者が持つ内釜に手を掛ける。


「でも、お米を研ぐくらいは僕でも……」

「大丈夫です!」


 強い声に、対象者が驚いたように内釜から手を放した。


「これは私の仕事です。私がやりますから」


 対象者に背を向けて、私は米びつの蓋を開ける。


「すみません」


 対象者が謝った。

 私が、唇を噛んだ。


 リビングに戻った対象者は、ソファに座って本を読み始めた。

 私は、リビングを見ないようにお米を研ぎ始めた。


 今のはどう考えても私が悪い。

 今すぐ対象者に謝るべきだ。


 そう思うのに、私は謝りに行くことができなかった。


 三時間近くも突っ伏して寝ていたのだ。私の顔には間違いなく跡がついていて、しかも真っ赤になっている。

 そんなどうでもいいことが気になって、私は謝りに行くことができなかった。


「何やってんのよ!」


 やり場のない気持ちをぶつけるように、私は炊飯器のボタンを強く押した。

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