一日目
氏名:工藤慎二
年齢:四十才
市ヶ谷の施設に着いた私は、廊下を歩きながら対象者の情報を思い返していた。
本人が小学生の時に両親が事故で死亡、以後は親戚のもとで育っている。兄弟はいない。
工業高校を卒業後、地元の金属加工会社に就職。現在もその会社に在籍中で、住まいは会社の独身寮。
年収は、ちょうど三百万。会社の業績悪化で数年前から給料は減り続けている。
結婚歴なし、恋人と思われる相手もなし。逮捕歴もなし。
「冴えない男ね」
「何かおっしゃいましたか?」
「いえ、何でもありません」
前を歩く自衛官に答えて、私は表情を引き締めた。
警備員が目を光らせる扉をいくつか抜け、ひときわ警備の厳重な扉の前に立った時、その自衛官が言う。
「この先の区画には、私も入ることができません。対象者の部屋は、廊下を突き当たって右になります」
「分かりました」
頷いた私が、厳つい自衛官を見上げて聞いた。
「あの、先ほどお預けした私の荷物は……」
「中身の確認を終えた後にお届けします」
「……分かりました」
おそらく、空港の手荷物検査など比較にならないくらい徹底的に調べられるのだろう。下着を含めて見られたくないものはいくつかあったが、今回は、普通なら絶対他人に見せたくないものが入っている。仕事だからと割り切ってはいるが、やはり平静ではいられない。それを顔に出さないよう努力しながら、自衛官に案内の礼を言って、私は扉を開けた。
真新しいカーペットと淡いグリーンの壁紙。間接照明に照らされた廊下には、静かな音楽が流れている。落ち着いたその雰囲気は、どこかの高級ホテルにでも来たのかと錯覚するほどだ。
区画内には、対象者の暮らすエリアと、医務室兼カウンセリング室、そしてトレーニングルームがある。この廊下を見る限り、それらの作りも立派なものなのだろう。
この区画は、侵略者から試練のことが伝えられた後、我が国の国民が対象者となった場合に備えて用意されたものだという。わずかな期間でよくここまで仕上げたものだと感心してしまうが、関係者たちにしてみれば、この準備が無駄に終わってくれることを心から願っていたに違いない。
区画に入れるのは、対象者と私、専属の医師と心理カウンセラーの四人だけだ。警備員がいないのは、対象者に余計な緊張感を与えないためだろう。その分、区画の外は異様なまでの警備体制が敷かれている訳だが。
「ここで対象者と暮らすのね」
小さくつぶやいて、私は深呼吸をした。
医師とカウンセラーは、決められた時刻にやってきて、仕事が終われば帰って行く。つまり、ほとんどの時間を対象者と二人きりで過ごすことになる。
「やってやるわよ」
上司の顔を思い出しながら、私は拳を握った。
トントントン
「はい、今行きます」
返事からほとんど間を空けずに扉が開いた。
私は、微笑みながら挨拶をする。
「はじめまして。工藤さんの日常生活をサポートさせていただくために参りました、島崎涼子と申します。よろしくお願いいたします」
言い終わってから、丁寧にお辞儀をして、ゆっくりと顔を上げる。
対象者は、私よりも背が高い。十センチほど上にある対象者の目が、じっと私を見つめていた。だが、その口がなかなか開かない。
私が小さく首を傾げると、対象者はハッとしたように姿勢を正した。
「す、すみません、お話は伺っています。僕が工藤慎二です」
慌てて返事をして、照れたように笑った。
写真の印象通りの、穏やかで優しそうな顔だ。ただ、体格は意外なほどがっしりしていて、背筋も真っ直ぐ伸びている。全体で見ると、年齢よりだいぶ若く見えた。
服装は、クリーム色のカジュアルシャツにジーンズのズボン。シャツの裾をズボンに入れていないのはいいと思うが、襟元からインナーの白い生地が見えているのはマイナスだ。
「どうぞ、中へ」
「ありがとうございます」
対象者の観察を中断して、私は中へと入った。
入ってすぐの部屋は、いわゆるLDK。リビングとダイニング、キッチンが一つの部屋にまとまっている。廊下同様、全体が落ち着いた色で統一されていた。
奥に見える二つの扉は、どちらも寝室につながっている。向かって右が対象者、左が私の寝室だ。ほかに、トイレと洗面所、お風呂があるはずだった。
すばやく間取りを確認する私に、対象者が言った。
「どうぞお掛けください。飲み物を用意してきますので」
ソファを勧めてくれたが、私はそれに座らなかった。
「飲み物は私が用意します。工藤さんはお掛けになっていてください」
笑顔は絶やさず、しかし断固とした口調で言う。
「工藤さんは何をお飲みになりますか?」
「えっと、すみません。じゃあ、コーヒーで」
「分かりました」
戸惑いながらソファに座る対象者に返事をして、私はキッチンへと向かった。
対面式キッチンのカウンターには、エスプレッソマシンが置かれている。対象者がここに来てから手配されたものだ。
カフェポッドをセットするだけの簡単タイプ。これなら私でも扱える。
「お砂糖とミルクはどうされますか?」
「あ、両方ともいりません」
「分かりました」
知っていて、私はあえて聞いた。
身柄を確保して以降、会話や行動を通して知り得た対象者の情報はすべて記録され、そのすべてに目を通している。
好きな飲み物はコーヒーで、砂糖とミルクは入れない。
食べ物の好き嫌いはないが、自分で料理をすることはない。
音楽はほとんど聞かない。趣味は読書で、読むのは歴史物や技術書が多い。
心理カウンセラーによる、対象者の行動傾向の分析結果も分かっていた。
争いを好まない温和な性格だが、一方で頑固な面もある。
革新より現状維持を好む。
与えられた目標に向かって計画的に進もうとする傾向がある。
積極的に他人と関わることはしない。
感情よりも理論・理屈を優先する。
これら既知の情報と、これから知るであろう情報を最大限に活かしながら、対象者を試練へと導かなければならないのだ。
二つのカップと、棚にあったクッキーをトレイに乗せて、私はソファに戻った。
「お待たせしました」
「すみません、ありがとうございます」
テーブルにカップを置きながら、私は対象者の表情や視線を確認した。
緊張はしているが、明らかに私を意識している。私の手元と、時折私の胸元をちらりと見ていた。
私の服装は、仕事でいつも着ているグレーのスーツ。だが、シャツはいつもより少し胸元の開いたものを選んでいる。
四十という年齢で、性欲を失っていることはないだろう。女性と”そういう”経験があるかは分からなかったが、”そういう”ことに関心はあるはずだ。
「改めて自己紹介をさせていただきます」
対象者の正面に座ると、私はなるべく柔らかい口調で話し始めた。
「島崎涼子、二十九才です。小学生の時に父を亡くしてから、母一人子一人で育ちました」
対象者が少し目を広げる。自分の境遇と重ねたのだろうか。
「出身は地方なのですが、大学進学を機に東京に出てきて、どうにか公務員になることができたので、そのまま一人暮らしをしています」
「そうなんですね」
対象者が、今度はわずかに顔を伏せた。そして、カップを口に運ぶ。
学歴にコンプレックスがあるのか、それとも公務員に反感でも持っているのか。いずれにしても、あまりいい反応ではない。
「私、小さい頃から国のために働きたいって思ってたんです。だから、夢が叶って嬉しかったんですけど、現実はなかなか厳しくて」
私もカップを持ち上げて、一口飲む。
本当はミルクを入れたいところなのだが、ここにいる間は我慢だ。
「仕事は忙しいし、奨学金の返済も母への仕送りもあるしで、時間もお金も全然なくて、時々挫けそうになっちゃうんです」
カップを置いて、私は笑った。
「公務員も楽ではないんですね」
「そうなんです、楽じゃないんです」
私がおどけて見せる。
「でも、どんな仕事でも同じですよね。私、社会に出て初めて、世の中にはたくさんの仕事があるんだってことを知ったんです。どんな仕事にも意味があり、それぞれに楽しいことやつらいことがある。みんなが役割を果たすことで世の中は成り立っている。最近それをすごく感じるんです」
対象者が、カップを置いた。
「工藤さんは、金属加工のお仕事をされているんですよね」
「そうです」
「やっぱり、大変なことってたくさんあるんですか?」
私が、少し身を乗り出しながら聞いた。
「まあ、いろいろありますね。うちの会社は自動車部品が主力なのですが、時々特殊な注文が来るんです。それがもう無茶なものが多くて……」
対象者が語り出した。最初は遠慮がちに、だが、その声が少しずつ大きくなっていく。
やはり、技術系の人間はその分野のことを話すのが好きなのだろう。私は、頷いたり感心したり、時々質問したりしながら対象者の話を聞き続けた。
やがて。
「あ、すみません。何だか一方的に話してしまいました」
恥ずかしそうに対象者がうつむく。
「全然平気です。工藤さんのお話、とっても楽しかったです」
「そうですか?」
対象者が照れたように笑った。
「本当はもっとお話を聞いていたいんですけど、そろそろ晩ご飯の支度をしないといけないんです。ごめんなさい」
「いやいや、こちらこそすみませんでした。というか、夕飯まで作っていただけるんですか?」
「はい。工藤さんの身の回りのお世話が私の仕事ですから。でも」
私は、申し訳なさそうに言った。
「じつは私、お料理は得意じゃないんです。忙しくてあんまり自分で作る時間がなくて……」
「大丈夫ですよ」
対象者が笑った。
「僕は、外食とかコンビニの弁当ばっかりですから。島崎さんみたいな、その、素敵な人に作っていただけるだけで、十分幸せです」
「ありがとうございます。私、頑張って作りますね!」
元気よく立ち上がって、私はキッチンへと向かった。
とりあえずここまではうまくいっている。私のことを”素敵な人”と言わせたことがその証だ。
このまま距離を縮めながら、対象者を試練へと導く。
料理が苦手なのは事実だが、まったくできないという訳ではない。今日の最後の目標は、対象者に私の料理を褒めてもらうこと。
気を引き締めながら、私は冷蔵庫の扉を開けた。
私が食事の支度をしている間、対象者はリビングで本を読んでいた。キッチンは対面式なので、リビングの様子がよく見える。対象者が、ちらりちらりと私を見ているのがよく分かった。
私のことを気にしてくれるのはいいことだ。ただ、それが少しプレッシャーでもある。
私は、人のために料理をしたことがない。そもそも私は、食事にあまり興味がなかった。表面上は微笑みを浮かべながら、慣れないキッチンで、緊張しながら私は料理を続けた。
晩ご飯は、豚肉の生姜焼き、肉じゃが、ご飯、そしてわかめと豆腐の味噌汁にした。冷蔵庫にはいろいろな食材が用意されていたのだが、私が作れるものは限られている。ここに来る前に慌てて調べたレシピの中からのチョイスとなった。
私の料理は、贔屓目に見ても上手とは言えない。それを、対象者は美味しいと言って食べてくれた。
その一言をもらって、私はホッとした。それほど私は料理に自信がないのだ。
「久し振りに、ちゃんとした食事をした気がします」
満足そうに対象者が笑う。
「それは良かったです。味付けとか食べたいものとか、遠慮無くおっしゃってくださいね」
最初の難関を乗り越えて、私もホッとしたように笑った。
その後は交代でお風呂に入り、少し会話を交わして就寝となった。
自分の寝室で”検査済”の鞄から中身を取り出しながら、明日の予定を考える。
「朝昼晩の食事作りに掃除と洗濯、午前中には報告会か。結構忙しいわね」
つぶやいた私が、ふと手を止めた。
手に取った小さな箱。昨日の夜、いくつかの小物に混ぜてかごに入れ、店員の目を見ないようにして買ったそれをじっと見つめる。
君なら、そういうこと、割り切れるだろう?
上司の言葉を思い出して、強く箱を握る。
「これは仕事。そう、仕事なのよ」
そう言いながら、ベッドの脇にあるチェストの引き出しの一番奥に、それをしまった。
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