第8話 規格外の魔法

 グニーエはタバサの手を引っ張り、森の中を懸命に走っていた。日頃から体力を使う作業から離れた生活を送っていたので、久しぶりの全力疾走にひどく呼吸が苦しかった。いや、それ以上に、ケガによる出血がグニーエの体力を奪っていた。

 獣が不機嫌に吠え、鳥が甲高い声を上げた。枝葉が揺れて乾いた音を騒がしく奏でた。もう日も暮れかけ、落ち着き始めた森が、突然の訪問者を迷惑に感じて追い出そうとしている。


「父さん、苦しいよ」

「黙って走れっ!」


 大人の自分がこれだけ苦しいのだから、幼い息子には酷な行動だろう。それは分かっていた。分かってはいたが、それでも走り続けなければならなかった。


「あっ!」


 石につまづいたのか、グニーエが強く引っ張りすぎたのか、タバサが派手に転んでしまった。


「ツバサッ」


 グニーエは慌てて止まり、息子を乱暴に抱き起こした。

 小石にでもぶつかったのか、額から流血し、膝も擦りむいて血が滲んでいる。


「痛いよぉ」


 グニーエは、泣き出しそうになる息子に、怒鳴ってやりたい衝動に駆られた。しかし、それはできなかった。今の状況は、すべては自分の行為が招いた結果なのだ。

 視野の端に、動くものが引っ掛かった。


「うっ、うう」


 近づいてくるのが何者かは分かっていた。恩人であり、長年の友人であるゼクテ・フォスターだ。いや、友人である、ではない。かつて友人だった、だ。彼は、もう自分を友人とは思っていないはずだ。

 今の彼は復讐の鬼と化している。さきほどは不意打ちでいきなり斬りかかってきた。グニーエのケガはその時のものだ。なんとか逃れて距離を取ったが、そんなことで諦めてくれはしない。グニーエの返り血を浴びても顔色一つ変えずに追い続けてきた。

 ゼクテは冷酷な視線で射てから、銃をグニーエに向けた。そして、ためらう素振りも見せずに引鉄を引いた。

 薄暗い闇の中に、スチールグレイの魔法陣が浮かび上がった。破壊の魔法だ。


「ツバサッ」


 グニーエは息子を抱いて駆け出した。

 背後が眩く光り、岩盤がいともたやすく砕け落ちた。魔法での殺人は禁忌であるにも関わらず、ゼクテはまったく意に介していないのが分かった。

 禁忌を犯すことに、なんの躊躇も迷いもない。丹念に鍛えられた鉄にも勝る硬い意志だ。しかも、意志に宿っている温度は、真っ赤に燃やした加工中の鉄より熱い。

 もう話し合える段階ではない。そんなタイミングはとっくに、自分が魔法を発動させた時に、いや、あの魔法を発見し取り憑かれてしまった時点で、なくしていたのだ。

 自分には迎え撃って戦う資格もない。逃げるしかない。この子を連れて、ただ逃げることしかできない。


「グニーエェェッ!」


 後方でゼクテが吠えた。ありったけの憎悪を圧縮して放たれた怨嗟の声だった。その声は直に鼓膜を突き破り脳に響くようで、これまでに耳にした狼の遠吠えや、熊の咆哮よりも恐ろしかった。悪魔が吠えると、こんなふうに聞こえるのだろうか。

 グニーエは必死に走り続けた。肺が灼けつくように熱く、口の中に血の味が拡がった。それでも構わずに脚を動かした。

 森を抜けた。枝葉に分断されて破片でしかなかった夜空が、繋がって無限の宇宙へと変貌する。

 足を止めて空を仰いだのは一瞬で、地上に視線を戻すと半分程が岩盤に埋め込まれた小屋が見えた。グニーエが、ここエグズバウトを訪れた際、研究室代わりに使用している小屋だった。


「ツバサ、もう少しだ」


 グニーエは、息子を励ますよりも、自分を叱咤するためにつぶやいた。

 急勾配を一気に駆け上がる。腿が破裂しそうに痛んだが、無視して呼吸を整えることに意識を集中させた。ツバサも涙を流しながら必死にしがみついている。

 這う這うの体で小屋の前までたどり着いた。グニーエは、ドアノブに手を掛けた。海に放り出され必死にもがいていたら、舟の縁に触れた。そんな心境だった。

 扉を乱暴に開け、息子を床に降ろした。

 天井の隅にいた蜘蛛が、扉から伝わった振動に驚いて身を隠した。しかし、そんなことには二人とも気がつかなかった。


「お父さんっ」

「しっ! 静かにしてるんだ」


 小屋の中には質素な机と椅子が置いてあるだけで、閑散としていた。エグズバウトに来た時だけ使っていたということもあるが、物が極端に少ないのは、研究していた内容が万が一にも外部に漏れないようにと用心していたからに他ならなかった。

 しかし、魔法を使う者なら気づいたかもしれない。この小屋全体に微弱な魔力が蓄積されていたことに。それは、この場所で何度もある魔法を実験した影響だった。

 できるか? こんな状況でできるか? 何度も失敗したのに。先日、あんな大惨事を引き起こしてしまったのに……。

 葛藤するグニーエに、息子が縋りついてきた。


「ねえ、怖いよ。なんでゼクテおじちゃんはあんなに怒ってるの?」


 怯える我が子の震えが、グニーエの迷いを吹っ切った。

 できるかできないかじゃない。もうやるしかない。あの魔法を失敗することなく発動させ、ゼクテから、いや、この世界から逃れるしかない。

 グニーエは我が子を抱きしめ、意識を言霊『アリア』に集中させた。

 とある遺跡で発見した時空魔法。それは異世界との狭間を顕現させ、二つの世界を繋げる。まさに世界に影響を及ぼす大魔法だった。普通の人なら、ゼクテすらも古代の人間の妄想だと笑い飛ばしたかも知れない。しかし、グニーエにはそれを無視できない理由があった。自分こそが異世界からやってきた人間だからだ。

 なぜ? なんの因果で? この世界に来てから何度考えたか分からない。たまたまなのか? なにか自分の想像もつかない理由があるのか? 考え疲れて、元の世界に帰ることなど諦めていた。魔法という奇妙な力が存在するこの世界に馴染んで、年を重ね死んでいこう。そんな思いに落ち着いていた。それなのに、あんな魔法を発見してしまった。一度は消えてしまった希望が再燃するのに時間は掛からなかった。

 恩人であり、師であり、友人でもあるゼクテにも内緒で研究を進めた。朧気ながら、時空魔法の全容が紐解かれていった。知れば知るほど、グニーエの期待は高まったが、一方では無理なのではないかという諦念も深まっていった。

 希望と絶望を繰り返し、それでも諦めなかったのは望郷の一念に他ならなかった。それはもう執念といっても過言ではない強い思いだった。そして、ついに魔法を発動させる段階にまで漕ぎつけたのだった。


「………………」


 集中力が途切れそうになるのを懸命にこらえ、グニーエは『アリア』を唱え続けた。

 まだ名も決めていない古代に埋もれた時空魔法。時間と空間に力を加えて、一時的であれ本来あるべき状態を強引に捻じ曲げる規格外の力。それゆえ、失敗した際の代償は計り知れない。

 先の実行では一つの街が消滅し、自分も妻を失った。魔法の中心にいたおかげなのか、自分とツバサだけは助かった。呪うべきは運命なのか自分の浅はかさなのか。あの大惨事は二度と起こしてはならない。なにがなんでも成功させなくてはならない。


「彼の者よ。あなたの正体が悪魔じゃないのなら、力を貸してくれっ!」


 グニーエの願いに応えるように、頼りない扉に魔法陣が浮かび上がった。


「お父さんっ」

「ツバサッ。一緒に帰ろうっ」

「お母さんは? お母さんは一緒じゃないの?」


 グニーエは、我が子を不憫に思った。この子は、まだ母の死を知らない。正確に言えば、グニーエも確認したわけではない。街ごと消滅したのだ。生きているわけがないと諦めたのだ。 

 扉に浮かんだ魔法陣が肥大し、輝きを増した。

 いける⁉

 グニーエの心に希望の火が灯った。しかし……。

 バンッ!

 けたたましい音を立てて、扉が開かれた。

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