4月3日 悲しみを超えた愛②

 スモモが消え、ワンダリング同好会の俺たちが目の当たりにしているのは摩訶不思議な空間。

 部室のテーブルや小物はそのままに、白紙の世界が広がっている。壁も天井も消え、距離感を測れないほどに奥行きのある空間に、黒い“バグ”が彷徨っている。無数の小さな蚊やら蛾やらが、どこかへ向かって飛んでいく。間を空けずに行進するその様は、天の川のようである。うじゃうじゃと頭上を埋め尽くす黒い星屑たちに戦慄する。


「見て!」


 茉莉が声をあげる。

 振り返ると、巨大な“バグ”が浮いていた。


 蝶の形をした羽は、片側だけでも人一人分の幅であった。羽全体は黒い斑模様で、加えてヒビのような歪んだ黒い線が走る。

 その羽の付け根には、人型のシルエットが浮かび上がっている。


 俺は息をするのも忘れていた。その人型が、見知った彼女のものであったからだ。


「李……!」


 少女は全裸であった。身体中が“バグ”に侵され、色白だった肌は、頬のあたりまで漫画のトーンの如く塗りつぶされている。桃色だった髪の毛先も、赤かった瞳も黒く染まっている。

 さらに、李を隠すように“バグ”が飛んでいる。


 俺たちは息を呑んで、変わり果てた李の姿を見つめていた。


「どう……して」


 李は俺たちと目を合わせるや否や、顔を歪めて呟いた。


 その直後、彼女を囲んでいた“バグ”が俺たちに進軍する。

 テーブルの上に乗ったナイフをパック越しに振り回す。隙を見てパックから抜き取り、“バグ”の身体を刺し貫いた。茉莉の目にした時のように、刺し心地が抜群なのは、“バグ”が金属を弱点とするからだろう。


「なんとかして李のところに……!」

「あんなに高いところにいるっていうのにかよ」


 李は、羽を動かさずに浮いている。だいたい十メートルだろうか。ジャンプしても絶対届かない。


 しかも各々、小型の“バグ”を追い払うのに精いっぱいだ。


「わああああ!!」


 優が絶叫をあげる。振り向いてみると、彼だけ大型“バグ”に追いかけまわされていた。

 あれ……あんなデカい“バグ”、飛んできてたか? それに、ものすごい速さで姿を変えている。カブトムシから蜂へ、蚊へ、蛾へ。


 優に集る黒い虫たちをナイフで刈り取る。


「優! 生きてるか?!」


 駆け寄ろうとした次の瞬間、俺の身体はテープのように長いものに巻き付かれた。


「しまった、ナイフ……!」


 俺の手からするりと抜けたナイフはテーブルに刺さり、


「うわあ!?」


 持ち上げられ、逆さまに吊り下げられた。

 腕にも絡みつくそれは、黒だけで配色されたムカデ。肌に触れる無数の足に背筋が凍りつく。

 李が、信じられないといった形相で呟く。


「どうして……ここに」

「決まってる! 君を助けに来たんだよ!!」


 俺はムカデの気色悪さを堪え、叫ぶ。


「そんな状態で……どうやって」


 絶え絶えになりながら喋る李に、こっちも息苦しくなってくる。

 しかし李の言う通り、自由が利かないためどうしようもない。解こうと身体を動かしても、無数の足が捕らえて離さない。


「鳥居~!」


 ヒュンと風を切るような音がしたかと思えば、集真の手から何かが飛んでくる。

 ナイフだ。それはムカデの胴にさっくりと刺さり、巻き付く力が急速に緩んだ。


 俺は真っ逆さまに落ちていく。


「兜様!」


 捕らえた側の李も動転していた。

 黒い靄となったムカデを、ボロボロに砕けるナイフを視界の端に入れながら。

 自分と地面との距離が掴めない。境界面すら曖昧で、くすみ一つないまっ白な床へと、俺は落下していった。

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