4月3日 悲しみを超えた愛①

 ——この部室に、李がいる。

 消えた苦いチョコレートが、その証拠。彼女が持って行ったのだ。俺は電気を点け、部室を一望する。だが大正メイドの姿はなく、床に寝そべった部員の姿しかない。


「李! いたら返事してくれ!!」


 大声で俺は叫ぶも、彼女の返事は聞えない。代わりに、集真たちが寝袋から出てくる。


「な、何さ鳥居……」

「急にどうしたの?」

「気でも狂ったのか、お前」


 不審者を見るような痛々しい視線が俺を刺す。


「違うんだ、ここに! この部室に李がいるんだよ!」

「いたらとっくに出てきてると思うんだけど?」


 冷静に告げる集真。

 しかしさらに冷静に言葉を紡いだのはスモモだった。


「ありえるかもしれません」


 顎に人差しを置き思案する。


「この場所そのものが“バグ”を起こしている可能性は否定できません。彼女が見えないように、細工されているのかも」


 俺の脳裏に、部室の扉をすり抜けた“バグ”が思い起こされる。あの“バグ”は、結局どこへ行ったのだろうか。


 いやそんなことよりも。そもそもどうして李はチョコレートを持っていったのだろうか。考えても、一つしか考えは思い浮かばない。そしてこれは憶測にすぎないが、李は寂しかったのではないのだろうか。

 主のいない世界はさぞ辛いのだろう。俺だってそうだ。彼女のいないこの世界は、酷くつまらないし物足りない。だからこそ、苦いチョコレートで心を休めようと思ったのではないか。


 そして俺を守るために、彼女は自分という存在を歪めた。世界を上書きして、初めからいなかったこととした。メイドでなくなってまでも、俺が元気に生きている世界を願った。

 だけどこれは、俺の望んだ世界じゃない。


 どうすればいい……?

 俺は頭をフル回転させる。

 そういや、スモモが言っていた。李の気持ちに立って考えたら良い、と。

 李は献身的で、笑顔が可愛らしくて。でも意外と頑固なところもあって、俺のためなら手段を択ばない冷淡さもある。

 それでいて不器用で、チョコレートの袋も開けられない。

 そんな彼女が作った世界……。


 チョコレート……袋……。


 俺は空間に手を伸ばす。


 半信半疑、一か八か。もはや賭けに等しい。

 だが俺には確信があった。だからこそ、こんなにも冷静に、両方の人差し指と親指の腹を合わせているのだろう。まるで袋の端を摘まみ、封を切るように。指で持った箇所が、僅かに形を歪める。


 ——破るのにはコツがいる。凹凸の凹の部分を中心に、裂くように両手をそれぞれ反対側に向かって引っ張るのだ。


 ピリッと子気味良い音が鳴る。と同タイミングで、部室の透明な空気に真っ黒な裂け目が浮かび上がった。切り口はギザギザとささくれ立っており、一人の指では引っ張れないほどに重たい。片方を引くので精いっぱいだ。


「手伝ってくれないか!?」


 集真たちは当惑していたものの、すぐに駆け寄ってくる。

 もう片方の持ち手を茉莉が摘み、彼女の腰に優、スモモが手を回した。俺の後ろには集真がついている。


「せー、の!!」


 俺の掛け声とともに、一斉に後ろへ体重を傾ける。両足に力を込め、裂け目の中心から身体を遠ざける。まるで大きな蕪を引き抜くように。


 ビリッ、ビリッと、亀裂が大きくなっていく。そして、裂け目が人一人分の幅を持ったその時だった。


「っ……!!」


 暴風が部室を包む。踏ん張らないと飛ばされてしまいそうだ。突き刺すような鋭い音が脳の中に直接響いた。ジンジンと頭が痛む。集真たちも苦悶の声をあげている。


 ジジジジ……!


 五線譜を突き抜ける “バグ”の金切り音に、思わず耳を塞いだ。だが高音だけではない。内臓を揺さぶるほどの轟音が身体を震わせる。この部室一帯がスピーカーに囲まれ、思いっきり重低音を鳴らされているようだ。


 風圧をこらえ、薄っすらと目を開ける。

 視界に入るのは、渦を描いて舞うチョコレートと、暴風の中平然と佇むスモモの姿。


「そういうことだったんですね……」


 何かに納得したような面持ちで頷いた後、


「いってらっしゃいませ——世界の中心へ李のもとへ


 表情を変えることなくそう言うスモモ。彼女の声は、不思議なことに轟音の中でも透き通って聞こえる。


「あの子のこと、よろしくお願いします」


 次の瞬間、視界は白く塗りつぶされた。

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