4月1日 美しい輝き①

 深海の如く真っ暗な世界に、俺は沈んでいた。何も……自分の身体さえも見えない。ただそこに自分がいるという感覚だけを残し、ゆっくり奈落へ落ちていく。どれほどの時間、俺は溺れているのだろう。息の仕方もとうに忘れた。だんだん身体が、自分が、この黒い世界に溶けていく。


 色々な人の声が聞こえる。波のように一挙に押し寄せるそれは、自分の身体と半ば一体化した空間によく馴染んだ。

 誰の声か、識別はできない。それに一部の声は、上手く聞き取れなかった。


 ——闃ア蜥イ譚と申します。以後お見知りおきを。


 ——私は、貴方様に仕える繝。繧、繝でございます。


 ——ふふん♪ 聞いて驚きなさい! 私は能力者よ!!


 ——“バグ”がこの世界の歪みなら——そんなのがうじゃうじゃいるんだからさ。この世界はきっと歪んでるバグってる


 ——なんで、俺じゃダメなんだよ……。


 ——やはり私は……貴方様を守らねばなりません。


 ——やっぱワンダリング同好会は、五人でないとねぇ。




 ——私のいない世界なら、幸せになってくれますか?




 音の波が引いていったと思ったら、今度は別の声が寄せてくる。


 今度は声の主が分かる。

 聞き馴染みのあるこの声は、集真だ。いつもの間延びした口調からは程遠い、真剣なトーンであった。


 ——意識不明……ですか。


 ——手は尽くしましたが……意識が戻るかは、私どもでも分かりかねます。


 相手は女性であった。ゆっくりと、諭すように状況を説明している。

 俺はそれを、他人事のように聞いていた。何も考えず、ぼうっと……耳から入ってくる情報を、身体の中で希釈させていた。


 ——ホントバカだよ……鳥居。


 悔しがる集真の声が、身体に染み込んでいく。


 でも俺は……動くことも、話すことも、見ることもできない。

 ただ漫然と、“外”の会話を聞いているだけだった。


 自分の身体が、碇のように思えた。

 もうきっと、水面に上がることはないのだろうと思いながら、俺は沈んでいった。






 ————


 薄暗い天井が、俺と向かい合っている。


「あれ……俺、なんで部室に……?」


 ぐっしょりと汗をかいていた。夢見が悪い。

 むくりと身体を起こし、辺りを見回す。字の書かれていないホワイトボード、そこに掛かった3月のカレンダー、アヤシイ本の並んだ木製の棚、そして俺が寝ころんでいた椅子。どっからどう見ても部室だった。


 確かに昨日、俺は集真と部室に訪れていた。3月31日……高校生最後の日ということで、部室を見納めに来たのだ。二人のまま部員が増えなかった、なんて話したっけ。それで集真の教科書を一緒に運んで……その後部室に帰った覚えなんてないんだが。ましてや一日眠っていたなんてあるのだろうか。


 ……何か大事なことを忘れている気がする。


 それに……。

 誰かに見られているような感覚があった。

 部室には俺以外誰もいないのに。しかし不思議と、不気味さはない。

 さらに俺は、あることに気づく。


「パーカーどこやったっけ……?」


 昨日はしっかり着ていたはずなんだが、どこにも見当たらない。

 机の上には携帯が置かれている。ロック画面には、4月1日の文字がくっきりと映し出されていた。


「4月1日……って、今日入学式じゃないか?!」


 入学式開始まであと三十分。ここから会場までの所要時間は約一時間。間に合うはずもないが、全速力で行くしかない。

 俺は跳ね起き、部室の扉を開ける。鍵を持っていないから施錠できないが、大目に見てくれ、部長。そう心の中で唱え、俺は部室を飛び出した。

 去り際に、スモモの木が視界に映る。曇り空の下、花の咲いていないスモモは寂しげであった。

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