?疲怦?第律  犠牲②

 沈黙が流れる。

 鼻の粘膜についた血の臭いが不快だ。その上、隣に座る彼……鳥居さんのせいで居心地が悪い。彼のことを考えると、身体が温かくなって、ソワソワする。

 鳥居さんはそんな私の異変に気づいていないようだ。


 静寂を破ったのは、私のお腹の虫だった。


 くうう……。


 私が顔をあげると、鳥居さんはショルダーバッグのチャックを開けながら問いかける。


「チョコ、食べるか?」


 私は小さく頷いた。

 すると鳥居さんは、チョコレートが入った子袋を手渡す。


「美味しいぞ」


 彼は自分の分のチョコレートを口に入れる。そして表情を緩め、私に笑いかけた。

 私もそれに続こうとするも、袋の口が開かない。

 悪戦苦闘していると、彼が手を差し出した。


「貸してみ」


 躊躇いながらも手渡すと、鳥居さんはいともたやすく開けてみせた。

 私は袋をもらい、チョコレートを口に入れる。酸味と苦みが押し寄せた。


「苦い……」

「あ、ごめん。苦いの駄目だった?」

「甘いのが良いです」

「……無いな、甘いの。ごめんな」


 バッグを探りながら、鳥居さんは申し訳なさそうに謝った。

 漁る手を鞄から抜いた彼は、腰を上げる。


「ちょっと様子見てくる。黒いの、もしかしたらいなくなってるかも」


 そう言って立ち上がる鳥居さんの裾を、私はぎゅっと掴む。


「あの……」

「ん?」

「ここに居てくれませんか」


 暗い所に取り残される自分を思い描いて怖くなる。家で一人になっても、気にならなかったのに。胸がゾワゾワと渦巻く感覚に襲われる。


「分かった」


 そんな私を見た鳥居さんは、私の横に座りなおした。




 チョコレートの苦みが薄れた頃、唐突に鳥居さんが尋ねてきた。


「李は何年生? ああ、ちなみに俺は今日から大学生なんだ」

「高校1年……いえ。8日の始業式で2年になります」


 努めて淡々と私は言う。鼓動が速いのは、緊張しているからだろうか。


「へえ~、じゃあ今日はまだ春休みってことか」

「はい」

「お出かけ?」

「はい……その」


 私は寸刻言い淀むも、自然と先を続けていた。


「…………妹に、プレゼント買おうと思って」

「そうなんだ。妹さんいくつ?」

「いえ…………生まれてこられなかったんです」


 生まれて初めて、他人に打ち明けた。胸の奥でドクドクと脈打つ。

 私の言葉を聞いた鳥居さんは、再び謝罪する。


「ごめん、その……」

「私の所為なんです」


 声のトーンが落ちているのが、自分でも分かる。


「私があの時、我儘を言ったから……病院に行く母を、引き留めたから……」


 胸が苦しい。


「だから私が……あの子を殺したんです」


 神妙な面持ちで聞いていた彼が、私を抱きしめた。少し驚いたけれど、そのまま彼に身体を委ねていた。


「……プレゼントって、毎年買ってるのか?」

「はい」


 温かかった。ずっとこうしてほしいと思った。私から抱きしめ返すのは少し恥ずかしくて、できなかったけれど。それでも身体が軽くなる心地だった。


「絶対伝わってると思う。君が、妹さんを思ってること」


 そう言って鳥居さんは私の頭を撫でる。

 彼の言葉は力強い。他人事でしかないのに、不思議な説得力があった。


「あ、あの……」

「ああっえと、これは……ごめん、つい。あまりに悲しそうだったから、居た堪れなくて」


 鳥居さんが腕を離す。


「いえ……そうじゃなくて……」


 もう少しだけ、抱きしめてほしい。

 そう言おうとした次の瞬間——。


 パリンッ!


 窓の割れる音とともに、何百匹もの黒い虫の群れが迫る。機械のノイズのような音を立てる小さな虫たちは集まって巨大な蜂に姿を変えた。鋭い視線に身体が震える。


「逃げるぞ!」


 鳥居さんが叫び、腕を掴む。しかし私は足が竦んで動けずにいた。

 そんな私に狙いを定め、女王蜂が自分の身体ほどある針を向けて飛んでくる。私は為すすべもなく目を瞑った。




 ――痛みはまだ訪れない。

 ゆっくり目を開けると、私を巨大な針から庇う青年の姿があった。


「良かった……無事……で……」


 彼の腹部を針が穿つ。引き抜かれると、お腹と口から血が噴き出した。


「かはっ!」


 鳥居さんがその場に倒れ込んだ。流れる血は止まることを知らず、彼のヒューヒューとか細い呼吸音が、私の鼓膜を震わせる。ギュウッと胸が締め付けられた。涙がこみ上げる。


「そんな顔……しない……で」


 彼は悲哀の表情を浮かべる。私の頬に伸ばす手は、しかし触れられることなくだらんと垂れさがった。


 分裂した小さな昆虫が、私の身体に入っていく。何十、何百。その数は計り知れない。じわじわと私の身体を蝕む虫たちに、私はどうすることもできない。いや、そんな気力も起こらない。


「ひっく……うう」


 涙が血だまりに落ちる。


「私の……せいだよ……!」


 ノイズが頭の中で鳴り響く。


「ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさい」


 痛みが内部にまで染み込んで。




 もう嫌だよ。


 変わりたい。


 変わりたい…………。


 ——そうだ。変われば良いんだ。


 ——貴方を愛し、尽くす私になれたなら。


 ——貴方が褒めてくれたみたいに、笑えたなら。


 ——4月なんて、来なければ。






――——


「ごめんなさい……」


 俺の身体の熱が冷めていく。蝕むような痛みに悶えるが、動くことも声を出すこともできない。目は開かず、覚束ない意識。遠くで少女の声がする。嗚咽を漏らしながら謝るは、誰なのだろうか。


「貴方が苦しむのは、もう嫌……」

 

 ノイズが少しずつ薄れる。

 は悲しげな声を響かせた。手を伸ばしたいのに、抱きしめたいのに、力が入らない。


「もしも、“バグ”がいない世界で……」


 痛みがゆっくり引いていく。

 ポタポタと、顔に落ちるものは冷たかった。


 ――私のいない世界なら、幸せになってくれますか?



 


 

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