3月39日 困難⑤
正面の階段……その天井のシャンデリアにはバグが巣を形成し始めていた。来た時には何もなかったのに、蜂の如き黒い羽虫が天井の光を覆い尽くしている。動きが止まっているとは言え、与える威圧感は凄まじい。緊張の糸が張りつめ、息を呑む。
特に悍ましいのは、直径5メートルもあろう女王蜂であった。
俺の体力も限界だ。頬を滴る汗が、李の服に落ちて染み込んだ。隅に一度李を下ろし、状況を見る。
「なあ、こんな時に聞くのも場違いだけどさ。どうしてお前は止まってないんだ?」
「きっと、これのおかげですよ」
パーカーを握りしめる力が強くなる。
……ひょっとして、俺の所有物を持っているからか?
動きを失った世界ゆえ、衣服の擦れる音でさえ顕著に聞こえる。普段音の溢れる世界で過ごしているせいか、沈黙の場に放り出されると居心地が悪い。生きた感じがしない。
「兜様は……その、苦しくはありませんか」
沈黙を破ったのは李だった。呼吸が落ち着いてきている。
「背中が痛くて、息が苦しい。これって、“バグ”のせいなのか?」
「はい。多くバグを取り込めば取り込むほど……副作用は強くなります」
その刹那、ノイズのグレートーンに覆われた世界は色を取り戻した。シャンデリアに巣喰っていた“バグ”たちがこちらに気づくと、甲高い奇声をあげて迫りくる。
ジジジジジジ……!
金属を擦るような音に怯む俺を掠め、李が走り出す。俺のパーカーを肩から巻いた彼女は、袖からナイフを抜き、バグにを真っ二つに切り伏せた。“バグ”を真っ二つに割る軌跡はまるで流れ星のよう。目にも止まらぬ速さだ。
ぱっくり裂かれた“バグ”は煤のように崩れ消えていく。李は“バグ”の臨終を留めることなく次の獲物を両断した。九匹、十匹と“バグ”を狩る動きは洗練されている。しかし時折体制をふらつかせる李に危うさを覚えた。俺に背中を向ける大正メイドは、肩で息をしている。
俺は背中に意識を集中させる。身体中に散らばった熱を一点に……。
「もう一度……!」
“バグ”は止まらない。しかし確かに能力は発動している。先ほどよりも密度こそ薄いが景色はトーンに染まり、空が砂漠化したようであった。
“バグ”たちは、テレビのスローモーションをかけたように速度を落とした。
俺の能力は、時間を歪めるものらしい。止めるだけでなく、時間の流れを遅くすることもできるのか。
李は振り向くことなく「ありがとうございます」とだけ言い、バグにまた一太刀。黒い飛沫が、乱舞した。
だが“バグ”も、李の猛攻を許すつもりはないらしい。小さな働きバチが、女王バチに群がっていく。
キチチチと音を立て混ざり合う騒音。融合を終える前にけりを付けんと、再び刃を構え駆ける。床に足を踏みしめ、ばねの如く大正メイドが跳躍した。その眼光は、手に持つナイフよりも鋭い。
「墜ちなさい」
李が声を振り絞り、腕を振るう。だが刃が“バグ”の皮膚に触れるその寸前、俺たちを衝撃波が襲った。
「李!!」
衝撃波に体勢を崩され、階段を転がる李。鈍い音を立て、一番の下の段まで落ちていった。すぐに頭を上げるも、足を挫いたらしく起きることは叶わない。
まずい、歪んだ時間も戻ってる。
「くそっ!!」
背中に再び力を込める。汗がぶわっと溢れ、身体が岩のように重い。
睨みつけた世界は灰色に染まり、黒い砂塵が散りばめられる。しかし濃度は小さくなり、トーンも薄くなっている。李に向かって飛翔する“バグ”の速さもほとんど変わらない。
もう能力は当てにならない。
ならどうすればいい?
——考えるまでもない。
ジジジジ——!
彼女に迫るバグに対し、俺の行動は一つだけ。それに俺は知っていた。
――この世界じゃ、俺は死なない。
間一髪だった。
俺の腹に、巨大な針が穿つ。激痛に意識が遠のいていく。
李を庇う形で、“バグ”と彼女の間に割って入ったのだ。
「兜……さ……ま」
李は顔を歪めていた。今までにないぐらい、悲しそうな顔をしている。
眼鏡をちゃんとかけているのに、視界はぼやける。見える世界の四隅から、じわじわと黒ずんでいく。
「そんな顔……しない……で……」
やがて俺の視界は、“バグ”の如く真っ黒に染まっていった。
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