3月39日 困難④
李の胸から腹部にかけて、肌を蝕む“バグ”。驚愕と恐怖で、言葉を失い身体が固まる。
俺が何も言えずにいると、李が悲しそうに呟いた。
「見られてしまいましたね……」
李が胸元を手で隠す。
「やられたのか……“バグ”に」
「……はい」
こんなにも居れば、デバッカーであれど取り憑かれてしまうのも無理はない。李の息はか細く、今にも消えてしまいそうだという嫌な想像に駆られる。
俺はパーカーを脱ぎ、そっと李に被せた。
「よく頑張ったな」
李の頭を撫で、優しく囁いた。現実への恐れと焦りで激しく脈打つ鼓動を悟られぬように。李は右手で、俺のパーカーをぎゅっと握りしめる。不意に、彼女の目尻から涙が零れる。血と混じった雫は、肌を伝い床に流れた。もう片方の手が、俺の右手と絡み合う。
きっと彼女も怖くてたまらなかったのだろう。止めどなく溢れる涙とともに、彼女は声を振り絞った。
「はい……兜様……」
しかし、“バグ”は俺たちを待ってくれない。絶好の餌だと見なしたのか、羽の生えた蟻型の“バグ”が俺たちめがけて飛んできた。シャンデリア一個分ほどもある巨体が、俺たちに牙を向ける。
俺は何もできない。この絶望的な今を打破することなんてできない。だって俺はデバッカーじゃないから。李みたいに強くないから。
李は怪我と疲労が祟っている。起き上がろうとする腕に力を込められない。曇り切った表情が、絶望に滲んだ顔が、黒ずんだ昆虫の巨大な瞳に映る。
そんな彼女の相貌に、俺の中でくすぶっていた何かが弾けた。
「止めろ!」
身体が動くより前に、背中を熱が迸る。血が激流する感覚に支配され、一瞬にして気が昂った。目の前の少女に向けられた意識という川の堤防が、決壊し氾濫する。止めどなく溢れ出る濁流を、抑えようとも思えない。
——俺の身体も、すでに“バグ”に憑かれていた。
羽音はもう聞こえない。
興奮状態にある俺とは対照的に、“バグ”たちは沈静であった。
俺と李以外のあらゆるものが、一瞬にして止まったのだ。
「フリーズしてる……」
李がぽつりと呟いた。
視界に映った万物が黒ずみに覆われている。まるで漫画のトーンが一様に貼られたようだった。“バグ”に至っては一層濃く暗く染まっている。
静止画となった光景に双方呆気に取られていた。しかしそんな俺を我に返らせたのは、
「はあっ……はあっ」
岩を乗せられたような疲労感であった。
能力行使の副作用か。
しかし、こんなものにへたれている場合ではない。
早く李を、外へ連れて行かないと。
いつまで“バグ”が止まっているか分からない以上、急いだほうがいいだろう。
腹部の前で李を仰向けに担ぎ上げる。俗に言うお姫様だっこの体勢だ。ドッと体力を消耗した分、李が重く感じる。
「兜様……大丈夫ですか」
俺のパーカーを握ったまま心配する李に、俺は作り笑いを浮かべた。
「ああ、大丈夫だ」
そんな俺をあざ笑うように、鼓動は速くなっていく。冷や汗が止まらない。
身体の側面を扉に預けて押し開ける。こっちも重い。
廊下は“バグ”が少なく、十数匹が巣に向かって飛んでいるだけ。しかも一時停止したままだ。
——とにかくまずは、屋敷を出ないと。
俺は李を落とさないように腕に力を込めながら、正面の階段を目指した。
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