3月39日 困難①

「ねえメイドさん」

「なんでございましょう、李様」


 窓拭きに熱心なメイドは、少女の方向を振り向かない。

 それを俺は、少し離れたところから傍観していた。


「私があの子を殺したから、お母さんもお父さんも私に会ってくれないのですか?」

「そうだと思います」


 長い髪を垂らした少女は、指を前で絡めている。メイドを見つめるその目は虚ろで、実際は誰を見るつもりもないのが伺える。


「では、どうして貴方たちは私の世話をしているのですか」

「命令でございます。貴方様が餓死すれば、一族の汚点となるとのことです」

「そうですか」


 どこも動かないのに、身体中に力がこもる。

 何も考えられないのに、息遣いが荒くなる。


 怒りと同情、それから……。

 俺は少女を抱きしめたくてたまらなかった。

 しかし切実な思いを遮るように視界は薄れ、少女とメイドは急速に遠ざかっていった——。




「うぅ……ん」


 瞼を開けると、点けっぱなしの電灯が目に入る。

 月のように円く眩しい明かりに、思わず目を細めた。


「夢……か」


 重い頭を起こす。

 昼食を食べ終えリビングのソファで横になっていたら、いつの間にか眠っていた。


 ……にしても。

 昨晩の夢がよっぽど印象に残っていたらしい。また見ていた。状況は少し違うが、豪邸に住む女の子の夢。その少女は、李と呼ばれていた。

 毎日李と一緒に居て、俺の記憶に刻み込まれた結果なのだろうか。だが、その夢は酷く現実的で……悲しいものであった。今でも頭から抜けることがない。くっきりと輪郭を描いたまま保持されるのは、少女の——李の空虚な瞳。


 暫時夢の残滓に思い耽る俺に声を掛けたのは、意外な人物であった。


「あ、お目覚めですか」

「李……?」


 いや、李じゃない、スモモだ。3月36日だったか。李が熱を出した翌朝、俺の前に姿を現した少女。

 テーブルに据えられた小さなちゃぶ台の前で正座をする彼女は、俺を向き直し口を開いた。


「ご無沙汰しています」


 表情を変えることなく、彼女は会釈をする。俺は身体を起こし、問いかけた。今一番聞きたい疑問を。


「え……どうして 居るの?」

「来てみたかったので。家庭訪問、というものですね」


 何の気なしに彼女は答える。

 表情こそ崩さないが、李と比べると大分フランクな感じだな、この子。


「本当はあの子の料理を食べたかったのですが……キッチンを探してもないんですよ。あ、チョコレートは見つけました。随分買いだめしてあるんですね」


 既に物色済みらしい。一口チョコレートのファミリーパックを掲げる少女。


「というか李は?」

「スモモは私ですが」

「あー君じゃなくて、大正メイドの服着た方の」


 ややこしい。音で表すとどっちも同じだから区別が面倒だ。


「彼女なら、買い物に出かけました」


 少女は素っ気ない口調で言う。


「そんなことより、チョコレートパーティでもしましょう」


 スモモは袋を開けようと端を持つ。も、開けられず悪戦苦闘している。こういうところも李そっくりだ。


「しょうがないな、貸してみ」


 ソファから立ち、スモモの持つ袋に手を伸ばす。スモモは一瞬ためらうもののおずおずと袋を差しだした。

 ビリッと軽快な音が手元で響き、チョコレートの小袋たちが顔を覗かせる。


 袋の口をスモモに向け、俺は質問を投げかけた。


「なあ、君ってあの大正メイドの李とどういう関係なんだ? 姉妹とか?」

「……そうですね…………姉妹……ですかね」


 歯切れが悪い。


「ひょっとして仲悪い、とか?」

「そういうわけではないんですが……顔は合わせづらいですね」


 俺には兄弟姉妹がいないが、やはり家族関係は複雑になるものなのだろうか。


「……苦いです」

「この苦みが良いんだよ」

「理解しかねます」


 チョコレートを口の中で溶かしながら、スモモは不快な面持ちを浮かべていた。

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