3月38日 集う喜び⑤
「おやすみなさいませ、兜様」
「ああ。電気、俺が消すよ」
「いえ、兜様のお手を煩わせることなど」
「……あ、うん」
優しく微笑む李に、俺の出そうとしていた言葉がつっかえる。少し気まずさを覚えながら、ベッドに胴体を預ける。俺が布団に身体を入れたことを確認し、李は電気のスイッチに手を掛けた。
次の瞬間、部屋は静寂と暗黒に包まれる。春の夜は、布団が無ければ少し冷える。
俺の寝るベッド……その横に敷かれた布団の中に、李は静かに潜り込んだ。
俺は暗闇に埋もれた天井を見つめる。
——李が来てから、一週間。
相変わらず4月はこない。
ヒントも掴めぬままだ。
ずっと、このままなのだろうか。
大学生活を送れぬまま、いつまでも3月に閉じ込められるのか。
しかし、4月がこない毎日は楽しくもあった。
今日だって、あれから同好会の皆で日が暮れるまでゲームをして……。
李は初めて最下位を脱出できたらしく、相当嬉しそうにしていた。見ているこっちの口元が綻んでしまうほどに。
李の寝息が聞こえる。
いまだに、彼女が何故俺の前にメイドとして現れたのか分からない。
——生きている限り、私はメイドでいる所存でございます。
サワッと、冷たい手で擦られるような気味の悪い胸騒ぎがする。
どうしてだろう。
それに最近、感覚が鈍ってきている。
メイド——李の奉仕に慣れ始めていることに、気づいて胸が騒めく。
駄目だと分かっていても、李は引いてくれない。そんな彼女に、俺は甘えている。
李の息遣いは一切の淀みがなく、聞いていて心地が良い。それは障害物のない小川のようであり、ゆっくり刻まれるメトロノームのようでもある。次第に李と呼吸が重なっていくことに気づく。シンクロする息遣いに落ち着く自分がいた——。
——微睡の奥で、俺は少女の夢を見る。
白い日の光が差し込み、小鳥の囀りとともに少女は目覚める。
俺は、幽霊のように傍に佇んでいた。声をかけることもできなければ、足や手を動くことさえ敵わない。いや、動こうとも思わない。ただそこにいるのが当然であるかのように、俺は彼女を見つめる。
桃色の髪を腰ほどまでに伸ばした少女はゆっくりとベッドから下り、服に手を伸ばした。
ベージュの絨毯が敷かれた床に、汚れ一つない真っ白な壁。窓の縁は赤銅色であり、品の良さが伺える。自分の部屋ではないことは明らかで、見た記憶もあるのに、思い出そうと思えない。
そんな広い部屋には、俺を除いて誰もいない。ベッドの隣に据えられた棚にはただ、今日の分の服が用意されているだけ。真っ白なブラウスに青いジャンパースカートを、少女は疑問を抱くことなく着替えた。
表情を変えることなく鏡に映る姿は、まるで、西洋の人形である。腰ほどまである長い髪を梳かし、彼女は部屋を出た。
瞬間移動でもしたかのように場面が切り替わる。
食堂だろうか。企業の会議室に匹敵するほど長いテーブルに、少女は座っている。シャンデリアが煌々と照らす下、用意されている簡素な洋食の他には何もない。やはり人はいない。
目玉焼きにサラダにパンが、寂しそうに彼女を待っているだけだった。
「やーい李。来てやったぞ」
何やら声がする。李と呼ばれた少女が振り向かずにサラダを口に入れていると、ドアを勢いよく開けて男がやってくる。緑色の髪をおかっぱに切りそろえた、少女と同じぐらいの背丈の男だった。青年というより、少年と呼んだ方が良いのかもしれない。
「って、なんか返事しろよ」
「……」
パンをひとかじり。
「無視すんなって!」
キャンキャンと鳴く少年を意にも介さず、少女は黙々と食事をとった。
「今日は二つゲーム持ってきてやったぞ。ま、どーせお前には上手くできないだろうがな。この俺……枝垂優様が直々に手ほどきしてやっても良いんだぞ?」
「結構です。どうでもいいです」
最後の一口を食し、彼女は席を立つ。
「可愛くないヤツめ」
そう言いながら、少女の袖を掴んで部屋に連行する少年。実力行使である。
彼女は逆らわない。逆らうことすら煩わしかった。だからされるがまま引きずられる。
俺はスライドするかのように二人の後に続いていた。
「そういや李。進路調査なんて書いたんだ?」
「はい?」
「いや配られただろ、春休みの宿題ってことで」
「ああ、ありましたね。そんなの」
「大学、どうすんだよ」
「どこでも構いません」
「いいよなお前は、なんかあっても実家に頼れるんだから」
「……」
少女は黙り込んだ。表情は陰り、その目は曇っている。
「親はなんか言ったりとか……あ、いや……なんでもない」
「何も言いませんよ、どこへ行っても。お金は出してくれると思いますが」
優と名乗った少年が、引っ張っていた彼女の袖から手を離した。
少女……李は黙って歩みを止める。
頭の中に直接響くのは、冷めた彼女の言葉。ぽつりと零したような声なのに、酷く明瞭にそれは聞こえた。
——私が。
——私が、あの子を殺したから。
再び場面が移る。
今度は夕刻だった。少女は柵を握り茫然と通行人を眺めている。その様子を、俺は横から見ている。
自分の背丈の二倍はある分厚い柵は、彼女を閉じ込める監獄を思わせた。
ふと、道行く人に少女の視線が移される。
卒業式だろうか。袴を着た女性が歩いていた。濃い影が彼女らの後を追う。
少女の瞳は心なしか輝いている。その視線が捉えるのは、女性たちが纏っている和装であった。夜が近づいているのにも関わらず映える赤や緑、青の色彩は煌びやかであり、彼女の目に光を与える。少女の体は少しだけ前に傾き、柵を握る手に力がこもっていた。
暗がりの中に、スモモの木は沈んでいる。花の咲く気配はなかった。
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