3月36日 秘めた思い②
「ハア……ハア……」
少女の吐息は、今にも消え入りそうなほどに儚く淡い。
額に手を当てると、その熱が伝わってくる。自分の額と比べると、明らかに李の方が熱い。血色の悪い肌に浮き出る汗が、事の大きさをまざまざと俺に突きつけた。
どうして気づけなかったのだろう。
李を抱き上げ、集真が敷いてくれた布団の元へ向かう。身体からは状況に似合わない果実のような甘酸っぱい匂いが漂う。
李は俺が想像していたよりも軽かった。やはりメイドなんて荷が重かったのだろうか。
「かぶと……さま……」
自身の襟元を小さな指で握る少女の、か細い声が辛うじて鼓膜を震わせた。虫の息を思わせる音に不安を煽られながらも、
「今日はもうゆっくり休め」
俺はできる限り普段通りに振舞う。
李は俺の顔を見て安心したのか、ゆっくりと瞼を閉ざしていった。小さくも確かな息遣いに安心感を抱きながら、李の身体に布団をかける。
暫くすると、着替えやらなんやら持ってきた茉莉が戻ってきた。家が近いらしい。息を切らしたまま俺と集真、優の身体を外へ押し出し、
「男子禁制ね!」
と勢いよく扉を閉めてしまった。肌寒いくらいの外気に晒され、パーカーのポケットに手を突っ込む。
扉から二人の様子は見えない。窓もカーテンが周到に閉められている。見えてしまったら、見てしまえばそれこそ変態の域だが。
茉莉は上手く着替えさせているだろうか。波立つ感情を自覚し、しかし抑え方が分からぬまま時間だけが過ぎていく。
一緒に追い出された集真は、特に動ずることなく壁にもたれかかっていた。
「ねえ鳥居?」
藪から棒に、彼は呑気な声をあげた。
「なんだ」
「間違ってるのは僕らの方かもね」
後頭部で腕を組み、集真は俺の顔を見つめる。
「なにがだよ」
「4月の話~」
そう言って集真は、雲に身を包んだ空に目を移した。
「“バグ”がこの世界の歪みなら——そんなのがうじゃうじゃいるんだからさ。この世界はきっと
自分自身を納得させるように、彼は呟いた。
「さっきから4月4月って……何言ってんだよお前ら」
眉間に皺を寄せた優が集真の顔を覗き込むと、集真は人差し指を顎に付けながら言った。
「う~ん……鳥居が行きたい場所、かなぁ。未開の地ってやつ?」
「変なの。そんなの行く意味あんのか?」
怪訝な表情で優は尋ねる。
「あるんだよ。大学生活送りたいし、3月が続くってのは落ち着かないし」
「ふぅん」
優は納得していないようだったが、それ以降質問をするでもなく黙って李の着替えを待っていた。
少しすると、ゆっくり扉が開かれた。
「あ……もういいわよ」
その隙間から、茉莉がおずおずと顔を出す。だが彼女は俺を見ることなく、気まずそうに顔を伏せていた。
「なんかあった?」
「え、あ、う、ううん。なんでも」
集真からも目を逸らし、
「じゃ、私帰るから」
素っ気なく告げ足早に去っていった。
「そ~だね、大勢いてもメーワクだし」
「お、俺はいるからな」
優はずかずかと部室の中に入っていく。
「鳥居に任せておけば大丈夫だって」
「こいつじゃ心配なんだよ」
俺を指さす優。
「とにかく! 俺が面倒みてやっから」
「はいはい。鳥居はどうするの?」
「残るに決まってるだろ、いつも世話になってるし」
「そ~言うと思った」
集真は満足げに頷き、部室の鍵を放り投げる。
「じゃあ、後はよろしく~」
キャッチした俺に親指を立てた集真は荷物を手に取り、そのまま部室を去っていった。
李の額には熱さましの冷却シートが張り付けられ、メイド服は傍らに畳まれている。
布団の傍には花柄の可愛らしいエコバッグが置かれ、中にはインスタントのおかゆと茶碗、スプーン、そして風邪薬が入っていた。
「李、おかゆ食べられるか?」
「あ……はい……」
弱弱しい声を出しながらゆっくりと身体を起こす李。
「あ、無理はしなくていいんだ」
「いえ……お腹……空いたので」
腹部に手を当てながら、申し訳なさそうに少女は微笑んだ。まるで笑い慣れていないかのような不器用な表情が、俺の目にこびりついた。
優が電子レンジでおかゆを温め、茶碗に入れる。具材も何もないオーソドックスな白い表面から、薄い膜のような湯気がふらついた。
「俺がやっから」
スプーンでおかゆの上辺を掬い、李の口元へ運んだ。
しかし、
「か……ぶと……さま……が」
優ではなく俺を見ながら、彼女は途切れ途切れに言葉を発する。
「……もういい」
俺に茶碗を押し付け、部室の扉に手を掛ける。
「なんで、俺じゃダメなんだよ……」
その表情は、俺には分からなかった。
勢いよく扉が閉まり、しんと静けさが部屋を包んだ。
優の出ていった方角を茫然と眺めていると、李の声が鼓膜を微かに震わせる。
「食べ……たいです」
「あ、ああ。そうだよな」
スプーンで掬って、恐る恐る彼女の口元へと運んでいく。
「……あつっ」
李が舌を付けるも、反射的に李の顔が引っ込む。
「あの……」
「あ……やっぱり自分で食べるか?」
出過ぎた真似だったか。
「……いえ」
布団を胸元まで上げ、恥ずかしそうに李は囁いた。耳に届くか届かないかの瀬戸際な声。その弱弱しい音色に、俺の胸の奥でキュっと何かが鳴いた。
「えと、じゃあ……」
少しためらったが、息を吹いて湯気を退散させた。スプーンの上で踊っていた白い帯は、一直線な風の流れに押されて空気と同化していく。適度に冷ましてから李の口元へ運ぶと、李はゆっくり口を開けた。
小さな口で静かにおかゆを飲みこむその仕草はやはりか弱く、巨大なバグや暴走した茉莉を切り伏せた少女と同一人物だなんて思えなかった。
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