3月36日 秘めた思い①

 どんよりと灰色が窓から見える。日の差し込まない室内はいつもより暗い。ぼんやりと朝の訪れを察しながら寝返りをうつと、布団の擦れる音がした。そのまま布団を抱くと、これまで肌に接していなかった部分が当たって気持ち良い。冷たい川に身を浸すような充足感に満たされる。あと5分、いや10分……。そんなことを呟きながら何度か寝返りを繰り返していると、ふと違和感に気づいたのだ。


 李が来ない。

 李の頬つねりがない。

 楽しみにしていたわけではない、決してだ。俺にそんなシュミはない。

 だが起こしに来ないとは珍しい。


 静まり返った室内に、俺の息をする音が聞こえる。


「李?」


 リビングに出て呼びかけも空しいことに、返ってくる声はない。

 どこかへ行ったのだろうか。しかし何のために? 


 働かない頭で考えながら玄関に向かうと、


「か、兜様っ……! おはようございます」


 荒い息遣いのままお辞儀をする少女の姿があった。走ってきたのだろうか。

 メイド服の袖には、僅かだが返り血の如く無造作な黒い飛沫が付着していた。


「李、その染み……」

「バグを駆除してまいりました。今朝は起こすことができず申し訳ございません」


 息を整える間もなく、少女は答える。

 そういや以前バグを切った時にも、ナイフに黒いものが付いていたか。


「すぐに朝食の準備をしてまいります!」


 クレームをつけられた従業員のように深く頭を下げ、小走りで食堂に向かう李。その足取りは疲れていたのかどこか覚束なかった。






「う~ん……載ってないねぇ」


 今日の同好会活動は、4月についての文献調査だ。部室にある雑誌を片っ端から漁りヒントを探す。とは言っても今のところ、ヒントと呼べるものは見つかっていない。指の腹から水分が奪われ、指紋が浮き上がってくるような感覚になっていく。


 目に留まったのは、“バグ”と思しき未確認生命体についての記事だった。火災現場が収められた写真の端に映った、煙のような黒い何か。目を凝らして見ると、その背には楕円状の羽が付いている。雑誌によると、この虫状の物体が火災を引き起こしたのだと言う。


「ほんとに4月なんてあるのかしら?」


 パラパラと冊子を捲りながら、茉莉は無垢な問いを掲げる。


「しが、つ……? なんだそりゃ?」


 優がぶっきらぼうに問い返す。


「あれ? なんで優がいるんだ?」

「入部届もらった~」

「デジャブだな」


 テーブルの上には、ミミズの張ったような字で名前の書かれた入部届が置かれている。


「なら、これからもずっと一緒ね!!」

「うっせえくっつくな! ……で、しがつって何だよ」


非力ながらも茉莉を懸命に引き剥がしながら、優は尋ねる。


「鳥居がさ、4月ってのに行きたいんだって」

「だからなんだよそれ」

「僕もよく分かんな~い」


 去年も一昨年も、ちゃんと4月はあった。俺からすれば、今この状況こそが夢だと思える。


「ねえ兜、4月ってどんな感じなの?」


 茉莉が期待を込めて尋ねてくる。手のひらを机に付けて、足をピョンピョンと弾ませた。


「え? そりゃ入学式があるだろ? 新学期が始まるだろ? それに……」

「入学式ならフツーにあるけど? あ、鳥居もお茶いる~?」

「ああ、頼む」


 ペットボトルから麦茶が並々注がれていく。水面には一抹の不安を抱えた俺の顔。

 確か3月42日だったか、集真の入学式。

 どうして俺だけ入学式がないのだろう。いや、俺の大学だけ、か。


「それに、なんか新しく始まるって感じがするんだよ」


 スモモが花咲くこの地において。

 入学式の看板の横で写真を撮られる少年少女を見るたびに、この子たちにも新たな生活が始まるんだと感じる。俺も、そうなるはずだった。


「へえ~!」


 茉莉は目を輝かせていた。


「ちょっと面白そうかも! ね? 李!!」


 李はうつむいたまま書籍に目を落としている。


「も~! なんでいっつも無視するのよぉ~!!」


 それでも李は答えない。

 ページを捲ることもなく、考え込んでいるかのように動きを止めていた。


「李? 寝てるの?」


 茉莉が彼女の肩に手を置こうとしたその時——。




 李の上半身が大きく傾いたかと思えば、足元に伝わる重い音。一瞬にして部室が静まり返り、この場にいた全員の脳内回転が一時停止する。


「「「李?!」」」


 しかしすぐに我に返り、彼女の元へ駆け寄る。茉莉も優も、彼女の傍にしゃがみ込んだ。集真は固まったまま動かない。

 本とともに倒れ込む一人の少女。

 その苦しげな息遣いが、空っぽになった脳を圧迫した。

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