3月35日 わが胸の悲しみ⑤

 日は完全に沈んだ。

 疎らに星が散る黒いキャンパスを窓越しに眺めていると、李がお盆を持ってやってくる。


「本日の夕食でございます」


 そう言って俺の前に皿を配膳していく。今日は白米、ほうれん草の和え物、そして肉じゃがだ。大正メイドな衣装も相まって、旅館に訪れた気分になる。お盆に乗せられていた一人分の料理は、この日も湯気を昇らせていた。


「……で」


 俺は隣に目を向ける。


「なんでいんの?」


 そこには、眉間に皺を寄せ胡坐をかく優の姿があった。


「なんでもいいだろ」

「出ていってください、ここは私と兜様の家でございます」


 辛辣な言葉を掛ける李に、優はニヤリと歯を見せた。


「相変わらずだな、お前は。安心したよ」

「それはどうも」


 二人は幼馴染だったか。にしては雰囲気がピリピリとしている気もする。

 俺は二人からできるだけ気配を消しながら、白米を口に入れた。


「なんだよ李、お前飯作ってんのか? どうせまたゲテモノになってるんじゃねぇだろーな」


 挑発する優だが、李は動じることなく俺に微笑む。


「美味しいですか、兜様」

「うん、美味しい」

「良かったです……!」


 破顔する少女に、こちらも笑い返したくなる。しかし優は不機嫌なままで、左肘をテーブルに置いて小言を漏らした。


「なんだよ……李のくせに」


 ふいっと俺と李から顔を逸らす優。すると、


 キュルルル。


 腹の虫が鳴った。

 優の音らしい。腹を押さえ、顔を真っ赤に染めていた。


「李。まだご飯残ってるか」


 俺は、立っている李を見上げて尋ねる。


「はい、少しだけですが」

「なら、こいつにも分けてやってくれないか」

「……兜様がそう仰るなら」


 慇懃にお辞儀をし、李は食堂に向かう。

 彼女の姿が見えなくなると、優は俺に身を寄せ潜めた声で問いかけた。


「……お世辞じゃないだろうな」

「何が」

「飯だよ、ホントにゲテモノじゃないだろうな」


 あまりにも悪評だ。


「お前李を何だと思ってるんだ……?」


 呆れた声色で俺が尋ねると、優は吐き捨てるように叫んだ。


「そりゃ、乱暴・メシマズ・唐変木のトリプルコンボだよ! そんなことも分かんねーのかよ」

「おいおい、失礼じゃないのか」


 振り返ってみても、当てはまる要素は一つもない。乱暴は……まあ確かに、バグ相手には容赦ないが……。


 優は目尻を指先で吊り上げながら語る。


「こないだだって、俺があいつのプリン食っただけでこーんな顔してさぁ!」

「……それ、お前が悪いだろ」

「そんぐらいで怒られても困るっての! ホント器が小さいんだからさ」

「貴方にどう思われていようが一向に構いません」

「うわあ!!」


 優の背後に現れた李が、ため息をついた。お盆を優の前に置き、一歩下がる。軽蔑するような眼差しが、優を刺した。

 かと思えば、俺には柔らかな視線を向けて言う。


「私は兜様に慕われていれば、それで十分でございます……ケホッ、ケホ」

「大丈夫か?」


 優が身体を前に傾け問いかけた。


「貴方に心配される謂れはありません」


 そっけなく返す李。


「風邪か?」


 しかし俺が問いかけると、


「いえ、少し噎せただけでございます。お気遣い感謝いたします」


 再び笑みを浮かべて答えた。

 俺に向けて柔和に微笑む幼馴染を一瞥した優が、俺に問いかけた。


「お前……李に惚れ薬でもキメたのか……?」

「なわけないだろ……俺だって何がなんだか」


 突如現れた大正メイド。そのメイドが、俺にだけやたらと親切にしてくれる。集真や茉莉、優には辛辣なのに。あまりに空想じみた現実に、ドーピングを疑う声が上がるのは至って自然なことだ。というか、身に覚えがなさ過ぎて自分でも疑っているぐらいだ。


 ——なぜ李は、俺にこんなにも親身に接してくれるのだろう。


 今まで漠然と浮かんではいたが放置していた疑問が、俺の脳内で顕在化した。冬の冬眠に備え蓄積される食糧の如く、謎は積もっていく。

 そんな俺の隣では、劇薬を扱うかのように手で仰いで肉じゃがの匂いを確かめる優の姿があった。異常なしと見たのか、仰ぐのをやめた彼は恐る恐るジャガイモを摘まんだ箸を口の中へ持って行った。


「あ……」


 零れたのは、あまりにあっけない声。


「……李のくせに」


 悔しそうに、彼はそう独り言ちる。二口目は先ほどよりも多く摘まんでいた。




 残りの料理もかき込んだ優は、長くとどまることなく帰っていった。

 気まずそうに目線を泳がせ、


「お前の飯……まあ……悪くなかった」


 とだけ呟いて。俺の隣にいた李は、表情を変えることなく彼を眺めていた。

 閉じられた扉の鍵を閉めようとする俺の背後で、李が囁いた……気がした。


「このままでいたかった……か」


 自分で紡いだ言葉を、ゆっくり嚙みしめて——。

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