3月35日 わが胸の悲しみ④

「う……うん……?」


 次に目を開いた場所は、やはり部室の椅子の上であった。眩いほどの明かりに腕で視界を隠す。

 身体をゆっくり起こすと、そこには縛り上げられた集真が逆さ吊りされていた。


「あ~、鳥居おはよ~」


 男だ。肩幅も声もいつも通りの集真だ。メイド服が絶妙に似合っていない、男の集真だ。目も青に戻っている。


「いや~、李ちゃんに怒られちゃったよ~」


 呑気に笑っているこの男、先ほど俺の初めてを奪ったのだ。


 俺の傍には、視線を泳がせた李の姿があった。


「お……おはようございます」


 その表情にはやや陰りがあり、口元は固く結ばれている。

 そして残りの椅子には、茉莉と見知らぬ少年が座っていた。


「そいつが……枝垂優か?」

「だからなんだよ」


 ぶっきらぼうに彼は言う。

 にしても本当に小さい。緑がかったおかっぱ頭を顎のあたりまで垂らし、茉莉とはまた違う高校の制服を着た青年は、ぱっと見だと小学生と間違えてしまいそうだった。

 一言で表すならば……。


「ちっさいよね~」

「うっせえ!」


 そう言って立ち上がった彼は、ぶら下がった集真の身体を強く押す。


「うごおお~」


 左右に揺れる集真。風に揺れるミノムシみたいだ。


「悪かったな! ちっこくて」


 いかにも不機嫌な優に、茉莉が満面の笑みで駆け寄った。かと思えば、優を抱きしめ髪をわしゃわしゃと撫で始める。


「でも可愛いわよね!、優!! こんな弟ほしいなぁ~」

「やめろっての!!」


 そんな二人を他所に、李はさっきから視線を伏せて何も言わない。


「というか何だよ! せっかくいい隠れ場所があるとかほざいといて、入ってみたらこれだよ!!」


 そう言って優は一蹴り入れる。また集真が揺れる。


「こちとらロッカーの中でお前らの喘ぎ声聞いてたんだぞ!! 俺どんな気持ちでいたら良かったんだよ?!」


 もう一蹴り。


「と~り~い~弁護して~僕を助けて~」

「知らん」


 集真とは目を合わせたくない。なんかこう……気まずい。

 まだあの味が残っている。気持ち悪い……。


「またチューしてあげるから」


 茉莉を鬱陶しがる李の気持ちが、少し分かった気がする。

 というかこいつ……全然懲りてない。


「……うがいしてくる」

「ええ~、折角の“初めて”なのにぃ」


 残念そうにぼやく集真を背に、俺は部室の扉を開けた。




 部室の外にある蛇口で、俺は口を濯ぐ。

 冷たく新鮮で味のない水が、今の俺には酷く心地よかった。唾液の交じった水を吐き出しながら、あの時の情景を思い出していた。頭に浮かぶのは、集真の妖艶な唇の柔らかさと、押し当てられた胸の感覚。それから……いや、これ以上はやめておこう。俺のメンタルがもたない。


「集真の奴……」


 潤った唇をハンカチで押さえ、しっかりと拭き取る。

 そうして振り返ると、そこには李が佇んでいた。

 細い指を腹部のあたりで絡め、俺を捉えては離すスモモ色の瞳。おぼつかない様子だったが、やがて少女はこう問うた。


「その……気持ちよかったですか? ……集真さんとの……」


 語るほどに小さくなっていく声。“集真とのナントカ”。その先はもはや聞き取れなかった。


「……怖かったよ、正直」

「怖かった……?」


 李が徐に顔を上げた。


「うん」

「なんか、あいつがあいつじゃないみたいで」


 誘うような赤い瞳が思い返される。


「そう……ですか」


 李は、俺の言葉をゆっくり咀嚼する。


「で、ではもし…………いえ、なんでもありません……」


 自分の唇に指先を乗せていた李だったが、躊躇いながら指を下ろした。そしてそのまま、足早に部室の中へ入っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る