3月35日 わが胸の悲しみ①
俺は部室の前で動けなくなっていた。
眼球が飛び出るかと思った。口から吸った息で、湿った舌がひやりとする。
世紀末だ。
こんな光景あってはならなかった。
夢だと信じて疑わなかった。
目の前にいるのは一人の少女。真っ赤な瞳が僅かに潤む。
茉莉が着ていたものと似たようなメイド服を少女は身に纏っていた。軽く腰を振るたびに灰色ショートボブの髪が躍る。サイズが少し小さいらしい、袖口から色白の手首が出ているうえ、首元最上部のボタンは外れていた。
傍目に映るのは同じくメイド服の茉莉だった。椅子に腰かけ、つまらなそうに少女を眺めている。
彼女の視線を他所に、少女は上目遣いで俺に囁く。
その声は、俺の知っている声ではなく——、
「おかえりなさいませ、ご主人様?」
——女体化した集真が、そこにいた。
「ご飯にします? お風呂にします? それとも……」
「李。頬をつねってくれないか、いつもより強めで」
「畏まりました」
間髪入れずに頬が鈍い痛みが襲う。
涙が出そうなほどに強く頬を引っ張られるも、集真の姿はそのままだった。つねられた箇所がさざ波の如く疼く。
集真は口を尖らせ、
「夢じゃないっての~」
とぼやいている。
「ってえ……集真、どうなって」
「どーせバグの影響よ」
茉莉が飽き飽きとした声を出す。
「差し詰め、姿を歪める力……と言ったところでしょうか」
李も横から告げる。
「というか茉莉、テンション低いな」
「最初はびっくりしちゃったけど、まあ……集真だし」
酷く冷めた口調で茉莉は言う。
「ねえ鳥居? 折角女になったんだしさ? ……女でしかできないことしたいな」
そう言って俺の手にしがみつく集真。大きく膨らんだ胸に腕が密着する。
「ねぇ? お願い?」
赤い瞳は宝石のように繊細で、揃った睫毛はどこか妖美な印象を受ける。指先はいつもより細く艶やかであり、感触はひんやりと冷たい。
身体を持っていかれそうになるも、
「……何をなさっているのでしょうか?」
引き留めたのは、李だった。笑みを絶やさず俺の腕をぎゅっと掴んでいる。しかし貼りついるこの表情をひっぺ返しでもすれば、般若の形相が浮かび上がってきそうだ。
「離してくださいませんか? 集真さん」
「え~譲ってよぉ」
「お断りいたします」
両腕の付け根からぐぐぐと擬音が聞こえそうだ。
痛い、裂ける。俺は人形じゃないんだぞ。
「ねえ、とっとと“バグ”捕まえない?」
そんな中、一番冷静なのは茉莉であった。
テーブルに肘をつき、面倒くさそうにやりとりを眺めている。
「そ、そうですね」
小さく咳ばらいをし、李がようやく力を緩めた。
そよぐ風が俺の背中を優しく押す。まるで俺を、元居た部室へ帰すように。
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