3月33日 可憐な愛情①

「兜様、起きてください」


 チョコレートのような甘い響きとともに、頬を鋭い痛みが停滞する。

 ゆっくり瞼を開くと、そこに彼女はいた。


「おはようございます」


 小川の如く清らかな声の主は、慈しみに満ちた笑みを浮かべている。その柔らかな——差し込む朝日を思わせる表情に、俺は絆されてしまっていた。だから頬をつねられたことも、さして気に留めなかった。


「あ。う、うん」


 彼女に渡された眼鏡をかけると、ぼやけた視界にくっきりとした輪郭が投影される。朝日の差し込む室内で俺の傍で佇む少女は、やはりメイド姿であった。今日の俺の着替え一式と思しきものを持ち、目を細めてこちらを見ている。


「あ、そっか…………今日、何月何日だっけ」


 独り言を、少女は聞き逃さなかった。


「はい、3月の33日でございます」


 まだ3月か。一日眠れば或いはとも考えたが……そう都合よく物事は進まないらしい。


「朝食の準備ができております、着替えたのちお越しください」


 と言って着替えを手渡すと、一礼して部屋を出ていった。


 服はどれも元から持っていたものだったが全て綺麗にアイロンがなされており、新品も同然だった。トレーナーに羽織にズボン、一般的なカジュアルコーデだった。

 これも李がやってくれたのか。

 頭が上がらない思いだ。

 メイド……いや、李。未だ正体は分からないものの、決してマイナスにはならないのではないかと感じる。


 ……駄目だ。俺もこの異変に毒されている。


 言いようのない背徳感に苛まれながら、俺は服を着替える。部屋の空気に冷やされた布地が肌に触れるたび、身が引き締まる心地がした。




 食パン、目玉焼き、サラダにヨーグルトと朝食らしい朝食。こんなにちゃんとした朝食を摂るのはずいぶん久しい。今まではコンビニで買った菓子パンだけで済ませたり、そもそも食べないこともざらにあった。


「お待たせいたしました」


 李が料理の乗った皿を運んできてくれた。その動作は安心感を与え見る者を和ませると同時に、微細な危うさ、無性にほめそやしたくなる何かをはらんでいた。


「ありがとうな、李」

「いえ、仕事ですので」


 深く一礼し、彼女はキッチンに戻った。


 さて、冷める前に食べてしまおう。


 パンはほんのりと焦げており、その香ばしい味わいが舌を絆す。噛むほどに甘味が広がる。目玉焼きは半熟で、黄身膜を箸でつつくと、夕日にも似た橙色がとろけ出た。俺の好みは完熟なのだが、彼女は半熟派なのかもしれない。サラダは家にあった醤油とマヨネーズで和えたもの。絡み合う旨味と酸味が味を引き締めている。俺は好物のトマトが入っているだけで大満足だった。ヨーグルトはアロエ入りのオーソドックスなもので、これまた美味しい。


「ごちそうさまでした」


 俺がそう言うと、李は恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに微笑んだ。その笑みに俺は心奪われていた。李から目が離せない。ずっと見ていたい、そんな感覚。

 それはそれとして、メイドがいる生活というのは、どうにも慣れない。


「どうかなさいましたか? 兜様」

「あ、いや。なんでもないんだ」


 慌てて目を背ける。


 その先には窓があり、澄みきった空が見える。アパートが二階というのもあり、下にあるもの……例えば犬だの猫だの人だのを見るにはベランダまで出る必要がある。


 しかしその必要はない。


「は……?!」


 その犬も猫も。駐輪場に並んでいた自転車も。地に足を付けることも忘れ空中を浮いていたのだから。

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