3月32日 忠実⑤

「ここが俺んち……まあ、借り物のアパートだがな」

「失礼いたします」


 まるで神にでも挨拶するかのように丁寧な一礼をし、李はしずしずと下駄を脱ぐ。


「にしても……」

「どうかされましたか?」

「いや、君がまさか家無しの身とは……」


 その事実は、帰路につく際何事もなかったかのように告げられた。こうなってしまえば、住を提供するのは至極当然のように思える……俺がこの子の主云々ではなく。


「違いますよ、兜様」

「え?」

「私の家は——いるべき場所は、兜様のお側なのです」


 少女は、幸せそうに微笑んだ。




「夕食は私が準備いたしますので、兜様はごゆっくりなさってください」


 これ……本当は招いた側の俺が言うはずなんだがな。


「いや俺がやるって、俺の家なんだし」

「いえ、貴方様の手を煩わせるなど」


 意外と頑固な子だ。譲るつもりはないらしい。食堂に備え付けた冷蔵庫の前に立ち塞がり、そこから一歩も動こうとしない。


「……分かったよ、じゃあ任せる」

「痛み入ります」


 俺が食堂を出ると、彼女は安心したのか冷蔵庫の中を確認する。そして人参とキャベツ、玉ねぎとピーマンを取り出し、軽やかな音を立てて刻んでいった。

 所作は一つ一つが整っており、規則正しいリズムに心が落ち着いてくる。繊維に沿って切っているのか野菜の反発する音も聞こえない。お手本のような包丁さばきに見惚れてしまう。だが彼女は俺の視線など気にすることなく、次から次へと野菜に手を掛けていった。


 20分ほどで仕上がり、李が両手で運んでくる。料理からはもれなく湯気が立ち上っており、眼鏡が白く曇っていく。香ばしい匂いが食欲をそそり、反射的に唾液が分泌されるのを感じた。


「いただきます」


 口の中でシャリシャリと野菜が躍った。ピーマンの苦みが良いアクセントになって、全体の味が引き締まっている。レタスの食感が顔一帯に、軽やかな音とともに響き渡った。油やその他の調味料の量も適切で、こってりしすぎない塩梅に仕上がっている。


「うまいなこれ!」


 白米がすすむ。


「そう言っていただけて幸いでございます」


 口に入っていた料理を飲み込んだ少女は笑いかける。それは作り笑いなどではない、本心からの喜びであり、この空間に和みという名の一石を投じるものであった。



 食べ終わった俺は、テレビを見ながらチョコレートを嗜んでいた。

 受験時代からの相棒であり、今でもよく食べている。お勧めはちょっとビターな奴だ。

 小さな籠に入った小包を一つ取り上げ、ギザギザの切り口を開けて口に放り込んだ。口の中で溶けた苦みと僅かな酸味を舌で舐めて味わう。


 やっぱ良いな、チョコは。


 そんなことを思っていると、ふと李に目線が向いた。

 気になるのかじっとチョコレートの小包を見つめており、その眼差しを餌は欲する小動物のようだった。


「チョコ、食べるか」

「はっ、はい。なんでしょうか」


 突然話題を振られ動揺する李に、俺は聞き直す。


「チョコレートいるか?」


 小包を一つ取り、李に差し出す。


「え、えっと。よろしいのでしょうか」

「ああ」

「では、お言葉に甘えて……」


 小袋を彼女の手のひらの上に置いてやると、李はおずおずと袋の凹凸を摘まむ。しかし不器用なのか、なかなか開けられないでいた。時折苦心の声が漏れる。


「貸してみ」


 渡すのを躊躇う李だったが、


「では、お願いいたします」


 と包みを俺の手のひらに乗せてくれた。


 破るのにはコツがいる。凹凸の凹の部分を中心に、裂くように両手をそれぞれ反対側に向かって引っ張るのだ。

 ピリっ、という音とともに茶色い板切れが顔を覗かせると、李は目を輝かせてチョコレートに視線を注いでいた。


「あ、ありがとうございます」


 少々緊張した——しかし喜びの隠しきれない面持ちで受け取った李は、


「では、いただきます」


 小さな口でチョコレートを一噛み。だが彼女には苦かったのか、顔を顰めている。


「口に合わなかったか?」

「いえ、そんなことはありません」


 必死に首を振る姿が健気であどけない。


「あの、兜様」


 笑みの内側に少しだけ強張った面持ちを貼り付けて、李は尋ねる。


「なんだ?」

「……貴方様は、4月に戻りたいのですか?」

「そりゃもちろん」


 しかし3月が続く状況下だと、4月は未知の領域なのだろう。李にとって俺が、所謂帰還者のいない樹海やきさらぎ駅に向かう人間に見えてもおかしくない。


「何故ですか?」


 首を傾げ、李は問うた。純粋に疑問に思っているようだ。


「何故って……大学に行くのが楽しみだしさ、それに4月がないと変な感じだし」

「そうですか」


 李が残りの欠片も口に入れるも、やはり苦々しい表情は抑えられなかったようだ。




 風呂に入った後の温まった身体でベッドに横たわり、今日という日を追想する。


「もう何がなんだか……」


 突如消えた4月、続いていく3月。

 まるで、俺の大学生活が始まるのを妨害するかのように起こり、原因は見当もつかない。

 あの黒い虫みたいな奴も気になるし。

 何より一番謎なのは、俺のメイドを自称する李だ。今のところ害はないしむしろ助かるのだが……慣れるまでは時間がかかりそうだ。


 相当頭を使って疲れたらしい、俺の意識はあっという間に微睡の海へ墜ちていった。

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