第10話 威嚇1




「――これが普段なら、無視できるんだけどね」


 塀に囲まれた狭い空き地で、一同は藍色の空を見上げていた。


 どこか遠くから、連続した爆発のような、地鳴りのような腹の底に響く轟音が聞こえてくる。それまで都会の喧騒を忘れるほどに静かだったこともあり、空から響くその音は無視できないものとなった。


「な、なんすか……? 飛行機……?」


 遠くの空に――藍色のキャンバスに白い線を引くように、飛行機雲のようなものが見える。それをつくりだしているだろう機影は空の色に溶け込んで窺えない。


「『蟲』よ。上空を飛行する、大型のね。私たちは〝キャリアー〟って呼んでる。たまにこうやってこの『狭間』の空を飛んで、制空権を主張してるってわけ。――千種ちぐさの手先よ」


「手先って……。え? 蟲って、なんかこう、野生の生き物じゃないんすか?」


「基本的にはそうだけど、中には千種の支配下に在るものもいる――」


 爆音が近づいてきた。頭上を過ぎる際に、周囲の塀や電柱が震動し騒音を立てる。まるで地震だった。『蟲』が過ぎ去るのは一瞬――しかし、災難はそこから降り注いできた。


「来たわね」


 舌打ち混じりに薫子かおるこがつぶやくと、クロウが頑馬がんま綾心りょうこの首根っこを掴み小屋の方へと追いやった。代わりに前に出る。


 上空から、何かが降ってきたのだ。それは頑馬たちのいる空き地めがけてゆっくりと――いや、急速に落下してきた。


 べちゃ――と、水気のある音が聞こえた。地面に黒い液体が飛び散っている。空を飛ぶ鳥が糞でも落としたような有様だが、その落下地点には異様なものが立っていた。


(ヒト……?)


 ヒト型をしている。しかし、直観的にそれが人間でないと分かる。黒い粘り気のある泥のようなものに塗れた、薄汚いシルエット――煌々と、頭部に当たる位置に不自然に大きな赤い光が、二つ。目というには、頭部の大半を占めている。まるで――


(『蟲』の……)


 複眼のような――


「あれは、『人蟲じんちゅう』――その名の通り、ヒト型の蟲よ。自然発生はしない、千種が〝人間の殺意〟を素にしてつくった怪物」


 薫子はそれから、「まあ、ザコ敵ね」と素気なく言った。


「クロウ、任せたわ」


「後輩、美少女戦士の〝戦い〟ってものを、よぉく見とくんだぞ?」


 銀髪の美少女戦士は冗談交じりに言いながら、『人蟲』と呼ばれる怪物のもとに、実に何気ない感じに歩み出る。


「え、あ、ちょ――」


 頑馬だけでなく、綾心もその〝ごく自然な様子〟に戸惑っていた。思わず薫子や恋無れむの顔を見るが、二人は肩を竦めるばかりだ。


 クロウの向かう先には、見るもおぞましい〝怪物〟としか表現できないモノがいる。それも一体ではない。二体、三体――地面にまき散らされた汚物の塊はまるでタマゴだ。そこから吐しゃ物を噴きだすようにしながら怪物が新たに一体、顔を出す。


 ……気味が悪い。直視できない。鳥肌が立つ。うっすらと漂ってくるのは、思わず顔をしかめてしまうような悪臭。さながらゾンビのように緩慢な動きをしているが、明確にこちらに向かってにじり寄ってきている。赤い眼光は間違いなく、こちらを――薫子を見ている。


 こんなものと、――戦う?


 怪物の手足は膿んでいるかのようにぶくぶくと泡立ち、破裂したかと思うと汚物を散らしながら固まる――でこぼことした異形の肌が整っていく。人間のような姿かたちをしているからこそ、余計に気持ちが悪い。


 なんなんだこれは。背筋に冷たいものが触れたように、全身に小さな震えが走った。発作のように痙攣する。


 それは恐怖だった。頑馬は、綾心は恐怖していた。


 ――そんなものを前に、平然と進む銀色の長髪。


 足を前に運びながら、流れるような動作で正面の一体を蹴り飛ばした。靴底を顔面に容赦なく叩きこんだ。怪物の首が後ろに折れ曲がり、そのまま吹っ飛ばされる――泥のなかに倒れ込み飛沫を上げるが、まだ起き上がろうとする。


「ビビる必要はないよ。こんな〝つくりもの〟なんかに――」


 言いながら、クロウは片腕を振るった。風を切る鋭い音――鞭のようなものがその袖から伸び、また一体の『人蟲』を吹き飛ばした。硬い、まるで人体を打ったような鈍い音がした。クロウは次々に鞭を打つ。


「あ、あの――これいったい、なんなんですかっ」


 綾心がひきつった声を上げた。頑馬は声も出せなかった。口のなかが干上がっていた。


 ……まるで、人間みたいだ。見かけの上では気持ちの悪い泥のかたまりだが、ヒト型をしているせいもあって――地面に手をつき立ち上がる動きも、尻餅をついたまま顔を上げる動きも、一挙手一投足の全てがまるで人間のそれなのだ。


 それこそ――〝着ぐるみ〟でも身にまとっているかのような――中には本物の人間がいるかのような――しかし、それはあり得ないと理性が訴えている。だってあれらは、あんな上空から落ちてきたのだ。


「まあ、初見にはキツいかもしれないな。これでもいちおう、この場の〝結界〟に侵入した影響で弱体化しているが、なにせ、見た目がグロい」


 と、わずかに顔をしかめながら恋無少年が言う。


「あれは、人間の持つ〝殺意〟――ある誰かが、他の誰かを殺したいと思ったときの感情――〝そのもの〟を、ヒト型にしたものだ。またの名を『殺人蟲さつじんちゅう』という。君たちが恐怖を感じるのも無理はない。〝つくりもの〟とはいえ、いちおうはこれも殺意だ」


「本来なら、私たちには縁もゆかりもない他人同士のあいだの感情を……誰かに向けた殺意を、〝こっち〟に向けているのよ。目の前に、実際ひとを殺そうとしている怪物がいるんだから……怯えるのも、仕方ないわ。それが自然な反応」


 その殺意を向けられているはずの当の本人は、ずいぶんけろっとした様子だ。


「でも、勘違いしないで――あれはしょせん、やっぱり〝つくりもの〟で、でくの坊による単なる虚仮脅し。〝本物〟じゃない、培養された殺意」


 クロウはなおも這い上がろうとする『人蟲』を鞭打っている。積極的には攻撃せず、こちらに向かおうと動きを見せたものだけを牽制するように叩いていた。


「〝生き物〟じゃないから、殺せないのよ。叩きのめして、〝浄化〟するしかない。殺意っていうのは……他者に危害を加えようという悪意っていうのは、目的を遂げてストレスを発散するか、痛い目に遭って懲りなければ収まらないのよ。まったく面倒な戦闘員だわ」


「あ、あの……マジで、これ、なんなんすか……?」


 かすれた声で頑馬はたずねた。二人は説明してくれているつもりなのかもしれないが、それだけでは未だ要領を得ない。


「先に、『蟲』は『乙女心オトメンタル』を喰らうと言ったが、それだけじゃないんだ。あいつらはもっといろんなものを……この場合で言えば、人間のネガティブな感情を喰らう。吸い取る、というべきかな。こいつらは人間の殺意を吸い取った『蟲』――」


「それを千種がなんやかんやしてつくりあげた――その殺意の〝矛先〟を私に向けた戦闘要員なのよ。その殺意だって、人工的な……悪者をつくりあげて、〝被害者〟にストレスを与えてつくりだされたものよ」


 まったくタチが悪いわ、と薫子は吐き捨てるようにつぶやいた。一方、恋無の方は淡々と表情も変えず、


「いちおう『蟲』自体は中立の立場にある。千種に利用されているだけでな。害虫ではなく〝益虫〟、精霊と見る向きもある」


 益虫? あれが? 頑馬と綾心の疑問はもっともで、恋無はすぐに説明を続けた。


「あれは本来、ヒトのストレスなんかを吸い取る――たとえば、何か嫌なことがあってイライラしていて、それをどこにもぶつけられずにいる時……それでも時間が経てばすっきりしたり、どうでもよくなっている時があるだろう。あれは、『蟲』がそのストレスを回収してるんだ」


 それだけ聞くと確かに、〝なんだか良いもの〟に思えてくる。なるほど〝益虫〟と言えるだろう――この場合で言えば、〝殺意〟を吸い取るということは、吸い取られた人間からその殺意は消える訳で、つまりは〝起こるかもしれなかった殺人〟を止めることになるのではないか。

 その殺意が別の人間……薫子に向けられるとしても。いちおう、彼女には自衛の手段がある。なにせ、『魔法少女』なのだから。


 それなら……、と一瞬思いかけて、頑馬は『人蟲』の変化に気付く。さっきまでぬるぬるとしていたその表面が、今は重油に塗れた金属のようなぎらぎらとした光沢を放っていた。腕に当たる部位の先端が鋭角になり――それを目にした綾心が「全身凶器……」とつぶやいたが、まさにその本質を射ている。


 あれは、人を殺すためだけに産まれたモノだ。

 相対して気分の良いものではない。


「殺意を吸い取った『蟲』が成長し、ある人間にとり憑けば――そいつは、急に社会に対して漠然とした恨みを抱き、凶行に走る。……本来なら一人の死、一つの殺人で済むはずだった殺意が、理由のない無差別殺人に変わるんだ」


 今目の前にいるのは、まさにその権化だと思えた。


「『蟲』はね、その回収したストレスを自分たちの『巣』に集める。それはやがて肥大化、そのうち限界を迎えて爆発し――大きな災厄となる。それはたとえば原因不明の事故であったり、今言ったような動機のはっきりしない事件であったりする」


 殺意が凝縮され、熟成され、より邪悪な――純粋な悪意になる。

 それが今は薫子に向けられているからといって、彼女が魔法少女だからといって、その存在は安易に許容できるものではない。


 改めて説明されると、頑馬にもその脅威が――感覚だけでなく、知識として理解できる。


 そして、もう一つ――『蟲』がそうした性質を持つということは――


「魔法少女の役目は、『巣』の〝爆発〟を防ぐこと――そうして生まれる脅威に対処すること。……一匹ずつ倒してたらキリがないから、だいたいは危険性のある『巣』の処理をするだけ。ただ、それでも人手が足りないから、『美少女戦士』という助っ人が必要になってくるわけ」


「しかし、必ずしも『蟲』が〝悪〟という訳でもない。そういう自然の摂理、この世界の……人間社会の見えざるシステムの一環だ。こちらからすれば、〝起こりうる災厄〟を視覚化してくれるだけ、ありがたい存在とも言えるのは事実。……ただ、問題はそうしたシステムを、千種が悪用しているということだ」


「この『殺人蟲』が世に出ても危険だけど、人間にとり憑けば大量破壊兵器にしてしまう。……そんなものをこうやって量産してるんだから、千種の魔女っぷりが分かろうというものでしょう」


 なる、ほど……と、頑馬と綾心は頷くほかにない。


 それから、頑馬はふと疑問を覚える。


 魔法少女と『蟲』の関係性――必ずしも悪ではない『蟲』を悪用するという、もう一人の魔法少女……『魔女』と呼ばれる存在。


 彼女が『蟲』に干渉できるというのは、どういうことなのか。


 魔法少女は、『蟲』をコントロールできるということなのか?


 それに、『殺人蟲』を量産するということは、その素となる〝殺意〟もまた量産されているのだろうか?


 頑馬がその疑問を口にしようとした、その時である。



 ――空に、亀裂が走る。



 それは口を開くように――『殺人蟲』の汚泥のちょうど真上に現れた。



 三つの人影。しかし、『蟲』ではない。



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