第7話「女の子を泣かせたままにするなよ、鮫田康介」

 僕の中で詩織の存在が徐々に大きくなっていくのを感じる。

 毎日ではないけど、お弁当を作ってきてくれることが原因かもしれない。

 今日のお弁当はなんだろうなとか、火曜日だから持ってこないなとか。授業中考えることが多い――そう言ってしまえば、お弁当を楽しみにしていると思われるが、実際は詩織のことを考えてしまう。


 慕ってくれる後輩。いつも僕との食事を楽しんでくれる。

 あの人とはまるで違う、楽しい昼休み。

 一緒にいるとたとえようもなく――心安らいだ。


 この気持ちはどこから来ているのだろうか?

 年下の女の子への親愛? 異性間の友情? 教え導こうとする責任感?

 きっとそれらは違くて、多分、ほっとけないって思う気持ちがあるからだ。


 十代という青春を過ごしながら、将来は銃火の世界に飛び込もうとしている詩織。

 ともすればあっさりと死んでしまいそうな危うさを感じる。

 僕にできることは少ないけど、詩織に対して何かしてあげることがあるなら、何でもしようと思わせる。


 いや、それだけじゃない。

 詩織は明るくて前向きで、たまに思い込みが激しいときがあるけど、芯の通った自分を持っていて、無邪気に笑いたいときに笑える素直な優しい女の子だ。


 翻って僕はどうなんだろうか。

 詩織と一緒にいて楽しいのは確かだ。

 だけど詩織は無理していないだろうか?

 背中にドロップキックした罪滅ぼしで僕にお弁当を渡しているのなら、もう十分だと思う。


 だけどそう言えない自分がいる。

 楽しい日々を壊したくない自分がいる。

 だから――保留している。

 あるいは停滞している。



◆◇◆◇



「毎日雨だと、気分が滅入ってしまいますねえ」

「そうだね。梅雨だから仕方ないけど」


 月が替わって六月。

 しとしとと降り続ける雨。

 二年四組の窓からつまらなそうに外を見ている詩織。ちょっとだるそうにしているのは運動できないからだろう。


「六月は水無月って言うらしいじゃないですか。なのにどうして雨が多いんですかね?」

「スマホで調べようか?」

「お願いします……」


 調べると水無月の『無』は『の』という意味らしい。

 だから水の月を表すという。

 それを詩織に伝えると「ややこしいですね」と笑った。


「そもそも旧暦だから昔の八月を表す。今の季節は関係ないよ」

「ふうん。そうなんですね」

「苗字が『文月』なのに興味ないの?」


 詩織は困ったように「文月が七月って意味しか知りません」と答えた。


「自分の名前の由来なんて、小学校の宿題でしか調べないですよ」

「まあそうだね」

「先輩の名前の由来って何ですか?」


 僕は「昔調べたけど忘れた」と嘘をついた。

 あの人たちのことを考えたくない。


「文月さんは?」

「死んだおじいちゃんのが選ばれたそうです。父さんと母さんは別の名前にしようとしたんですけど、くじ引きで決めたらしくて」

「じゃあ別の名前になっていた可能性があるのか」

「すみれとか直美とか。でも私、自分の名前気に入っているんですよ」


 羨ましい話だ。僕は『賢悟』という名前は気に入っていない。あの人たちの隠れた真意が見え隠れしているからだ。本当に期待しているのならもっとシンプルなものを名付ける。


「文月さんは弟がいるって前に聞いたけど、名前はなんて言うの?」

「勝利って書いて『かつとし』って読みます」

「結構、雄々しい名前だね」

「男の子ですから。これは母さんが付けたんです」


 詩織は困ったようにため息をついた。


「手のかかる弟ですよ。宿題もしないで野球ばかりやっているんです」

「男の子はそれくらい元気ないとな」

「でも中学三年生でそれは良くないでしょう?」


 とは言いつつ楽しそうな感じが見えているので仲が良いんだろうなと想像する。

 詩織のお父さんはサラリーマンでお母さんは専業主婦と聞いていた。絵に描いたような平凡な家族。僕には手に入らないもの。


「野球が好きならそれで高校に行けばいい。スポーツ推薦とかで」

「上手ですけど、通用できるか微妙です。体格だけでやっているので」


 弟の勝利くんは詩織より大きいらしい。中学生でそれは驚異だった。

 こうして益体のないことを話すのは楽しい。

 天気とか家族のこととか。

 普通の会話はなかなかできないからだ。


「内藤ちゃん、文月ちゃん。ちょっといいか?」


 昼休みが終わろうとするとき、生徒会室から帰ってきた鮫田が僕たちに話しかけた。

 どこか困った顔をしている。


「何かあったんですか?」

「そうなんだ。何かあったんだ」

「分からないからきちんと話せ」


 鮫田は頬をぽりぽり搔きながら「金城会長のことなんだが」と言う――予鈴が鳴った。


「あー、後にするわ。授業に遅れたら不味いし」

「そうですね……放課後、また来ます」

「文月さん、部活は?」


 詩織は「自主練だから遅れても大丈夫です」と答えた。

 雨天の中、走るなんて学校が許さないだろう。


「分かった。じゃあ放課後に」


 そう約束して僕たちは別れた。

 鮫田の相談はなんだろうと気になったけど、次の授業の準備をし始める。

 まだ新しい数学の教科書は、湿ったインクの匂いがした。



◆◇◆◇



「金城会長、海外留学するみたいなんだ」


 僕たちは屋上と四階の間の階段の踊り場で話をしていた。

 教師や生徒はあまり来ない。だから話すのにちょうどいいと鮫田は言う。

 鮫田から事情を聞いた詩織は「凄いですね」とよく分からないまま賞賛した。


「それで、どこの国で期間はいつまでだ?」

「イギリスで半年だ。姉妹校提携している……」

「クリッペ校か」

「それだ。よく知っているな」


 なんとなく覚えていた。

 僕は「それで相談ってなんだ?」と本題に入る。


「さっき、金城会長から伝えられて。俺が凄いなおめでとうって言うと……泣き出しちゃって」

「えっ? 泣いたんですか?」

「俺もよく分からない。それであたふたしていたら抱きしめられた」


 詩織は顔を赤くして「大胆ですね、会長」と言う。

 鮫田は「しばらくして離れてどっか行った」と戸惑っている。


「なんで泣いたのか、まるで分からねえ。だから二人に相談しようと思った」

「確かに……うーん、謎ですね」


 こいつら……わざとやっているのかと疑ってしまうほどにぶい。

 僕は少々呆れながら「それは鮫田から離れたくなかったんだ」と言う。

 二人の視線が僕に注目する。


「離れたくない? ならなんで海外留学なんかするんだ?」

「それは分からない。でもさ、君がそれを喜んだからショックだったんじゃないか?」

「どういうことだ?」


 鮫田が昔からにぶいのは分かっていた。

 詩織もまだぴんと来ていないらしい。


「本当は止めてほしかったんだろう。行かないでほしいって。でもお前は喜んだ。だから悲しくて泣いたんだ」

「…………」

「君が言うとおり、離れたくないのなら海外留学なんてしない。でも何か理由があるはずだ。鮫田、心当たりないか?」


 鮫田は顎を手で触りながら「会長は外交官になるのが夢だって言っていた」と言う。


「いつか本場の英語を習いたいって。俺はそれを覚えていたから……」

「なるほどな。なら望んだことか。つまり行きたい気持ちと行きたくない気持ちが半々なわけだ」


 詩織は「どうしたほうがいいんですかね?」と僕に問う。


「金城会長の夢を応援するのか。それともって話ですよね?」

「さあな。それは彼女自身が決めることだ」


 鮫田はまだ納得していないようで「よく分からないんだが」と首を傾げた。


「どうして会長は俺と離れたくないんだ?」


 この男、正気なのか?

 詩織は「多分ですけど」と前置きした。


「会長は鮫田先輩のこと好きなんですよ」

「会長が?」

「半年とはいえ、離れるの嫌なんじゃないですか?」


 鮫田は黙り込んでしまった。

 僕は「君と会長のことはよく知っている」と告げた。


「どんな結論を出すのか。そしてどんな言葉を送るのか。それは自由だ。でも――」


 こんなことを言える立場じゃないけど、言っておかねばならない。


「女の子を泣かせたままにするなよ、鮫田康介」

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