ノアとルーカス、二人が向かったのはパソコンや資料が散乱する広い部屋。

 その部屋の奥には白い扉があり、扉を開けると一〇帖ほどの部屋があった。狭くも広くもない部屋だ。デスク、オフィスチェア、パソコン、資料棚、全てが二つずつ揃っている。そして部屋の隅には小さな冷蔵庫とソファー。ここはノアとルーカス、二人だけの仕事部屋だった。

この部屋、通称・Noah's arkノアズアーク、意味はノアの方舟だ。ノアが逃げ込める場所、安心だと思う場所、それを旧約聖書の創世記に登場するノアの方舟にかけている。大洪水から守ってくれた舟、ノアの中に存在する大洪水は人間だった。その人間から守ってくれる部屋、それがNoah's arkだ。

 本来なら、ノアは自室を与えられるような位の高い捜査官ではない。他の捜査官同様、同じ部屋で仕事をするべきなのだが、大勢で仕事をこなすことはノアにとって不可能だ。そのため、ノアには様々な特例措置が施されている。この部屋は特例措置のうちの一つだ。

「ルーカス、クッキーありますか?」

「あるよ。木棚の上から三段目、右端に置いてある缶の中に入っているよ」

 ルーカスは、いつもそうしているように彼に伝えると、自分のパソコンの電源を入れた。ニュースを読み、メールを確認する。急ぎのメールは無かった。コーヒーでも飲もうかと、デスクに手を置いた瞬間、ソファーの辺りから声が聞こえる。ドイツ語だ。声の主はノアだった。

「Es gibt keinen keks.Es gibt es nirgends.」

  ああ、やってしまった。ルーカスは立ち上がり、ノアに近づく。

「ノア、ごめん。クッキーは昨日で終わったんだ。予備を買ってあるから、缶に入れるね?」

 しかし、ノアは足を抱えるようにして床に座っていた。そしてずっと呟いていた。

「Es gibt keinen keks.Es gibt es nirgends.」

 彼がドイツ語で話すとき、それは独り言や困ったことがあったとき。

 そこにあるはずのものがない。いつもとは違う。それが彼にとって苦痛でしかなかった。そのためノアはずっと言っていたのだ。“Es gibt keinen keksクッキーがない.Es gibt es nirgendsどこにもない.”と。

 ノアがこうなったときは、英語はもちろん日本語でも通じないのだ。ノアがドイツ語で話しているときはドイツ語で、日本語で話しているときは日本語で、英語で話しているときは英語で。それが彼と接する上で必要な言語コミュニケーションだった。

「ノア、クッキーはここにあるよ。缶の中に入れた。食べていいから……」

 ルーカスがそう言うと、ノアは抱えていた足を離し、彼が差し出す缶を覗いた。クッキーがある。ノアはクッキーを一枚を手に取り、口へと運んだ。笑顔になったノアを見て、ルーカスもほっとする。これで仕事が再開できる。

「ルーカス、今日の僕の仕事は何ですか?」

「昨日に引き続き、コールドケースの資料を渡すよ。何か気づいたことがあれば言ってくれるかい?」

「分かりました。何の事件ですか?」

 ルーカスは自分の資料棚から青いバインダーを取り出し、ノアに見せた。

「この中から自分が出来そうな事件を選ぶと良い」

 ルーカスはそう言ってバインダーを手渡す。

「“”」

「“州立病院殺人事件”ですか…。分かりました。ルーカス、僕のパソコンも電源入れていいですか?」

「ああ。構わないよ。また何かわからないことがあったら、いつでも言うんだよ。私もここで仕事をするからね」

 ノアは無邪気な笑顔で頷くと、バインダーを開き、資料を一枚ずつ外し始めた。

 相変わらず不思議なやり方だ…。何のためにバインダーにしているのか…。けど、その方がやり易いって言うんだから、本当に不思議な子だよ。

 ルーカスはノアの様子を見ていた。時々、左手でクッキーをつまみながら右手で資料を読み漁る。こう言うことに関しては、同時進行できるのにな。数分前まではクッキーがないと言っていた彼が、今は仕事をしている。

「私の相棒は変わり者だ……」

 彼はそう呟いた。


【日本 警視庁捜査一課】

「とりあえず、救世主事件に関する概要はさっきの会議で聞いた通りだ。日本でこんな事件は珍しい。資料もそこにあるだけだ」

「警部、これって単独の犯行でしょうか…?俺にはどうも、一人だとは思えなくて…警部はどう見てます?やっぱりグループの犯行ですよね」

 そう聞いてきたのは、巡査部長の森田暁斗だった。森田は若い割には仕事ができる。出世も早い。目の付け所も悪くない。警部・郷田にとっては無くてはならない右腕だ。

「あ、僕もそれが気になってました。これだけ複数の場所に存在し殺害する。一人では無理ですよね?」

 彼は巡査の村上竜太郎。班の中で一番年下だ。時々おかしなミスはするが、仕事はできるようだ。しかし、いつも斎藤にくっつく、まるで金魚の糞みたいなやつだ。「俺もそう思います。何か腹立ちますけど、こいつの言う通りですね。珍しく同意します。警察もグループの犯行と見ているそうですが、警部はどう思います?」

 そして一番最後に口を開いたのが、巡査長の斎藤祥太。仕事もできる。武術にも長けている。度胸もある。しかし口が悪いのが玉に瑕だ。

「確かに、お前たちが言うようにこれは単独の犯行だとは考えにくい。犯行手口も、凶器もばらばらだ。犯人は複数いてると考えたほうが妥当だろう。よし、手分けしてマル害の地取りと鑑取りしよう。地取りは斎藤と村上、鑑取りは俺と森田だ。いいか?」

「了解です」

 全員が頷く。事件捜査開始だ。

 東京での救世主事件、五人目の被害者、村野将司。郷田班は村野の調査にあたっていた。


 郷田と森田は村野の身辺を調査していた。捜査開始から二時間、そろそろ他の場所へ移動しようと歩き始めたとき、斎藤から電話が掛かってきた。

「はい、郷田。どうした?」

『警部、斎藤です。被害者・村野がかつてアルバイトとして勤務していた職場が見つかりました。三件あります。ビデオレンタル店、ガソリンスタンド、コンビニです』

「そうか。それで話は聞けそうか?」

『聞けそうです。今から村上を連れて、ビデオレンタル店から話を聞きに行きます。終わったら連絡します』

「分かった。頼んだぞ」

 郷田は斎藤との短い電話を終えると、森田と共に村野の家族や友人を当たり始めた。村野が刑務所へ入る前に住んでいたというアパートの大家に話を聞いていく。

「そうですか。それで、村野さんは住人の方とお付き合いや関わりはありましたか?トラブルなどは?」

 森田は大家の女性に尋ねる。大家は人当たりの良さそうな女性で、すんなりと話も聞かせてくれた。

「そうね……特に関わりは無かったわね。会っても軽く挨拶したり、会釈したり。まあ、大学生だしそれくらいかと思って。あ、でもね一度見かけた時に彼、怪我して帰ってきて……。手が血だらけだったから、声を掛けたんだけど……」

「彼は何て?」

「“俺じゃない”って。ひどく疲れているような、話しかけるなってオーラが凄くて。だからその日はそのまま……」

「それはいつくらいか覚えてたりしますか?」

「もう十年も前ね……。彼が怪我をしてるのを見て、しばらくの間はアパート内でも見かけることもあったけど、その後はぱったりと見かけなくなって。アパートも解約したしね。……あ、もういいかしら?この後用事があって」

 森田は大家の女性に「ご協力ありがとうございました」と頭を下げ、メモを取る。彼の口からは大きなため息が出ていた。

「あまり手掛かりはありませんね……。大家さんが言っていた怪我は、恐らく友人との……」

「そうだろうな。次は家族の所へ行こうか。ここからどれくらいだ?」

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